ヤグルマギクの花束
――歴史にロマンを求めるな――


 ふと思い出して、吉村作治氏の『古代エジプト女王伝』(新潮社/1983)を読み返しておりました。ビックリマンの内裏ネイロス格好いい!から始まって古代エジプトに興味を持った私が、最初に買った本だったと思います。
 「……あれ?」読み進めるうちに浮かんだ1つの疑問。「吉村先生、『ツタンカーメンのお葬式の時、普通は葬儀の時には前々から用意をするものなのですが、突然、野に咲いていたヤグルマギクを切ってミイラのところにそっと入れているんですね。これはダイイングメッセージという風に私は考えています』って言ってなかったっけ?」
 『古代エジプト女王伝』の記述はこうでした。「召使いの女たちは朝早くから庭園に出て、花輪にするための香りの良い花をつんでいた。(中略)アンケセナーメンと王家の女性たちは、王のミイラが一つ櫃に納められるたびに、櫃の中を青蓮や矢車菊、オリーブの葉で埋めていった」
 それで思い出したんですが、今年(2007年)の正月特番『古代エジプト大冒険!!黄金・ミイラ・大発掘 究極の48秘ミステリー全解明スペシャル(2007年1月3日)』では、花束は棺があった部屋ではなく、前室に無造作に置かれていたと言われていました。(※1)一体どれが正しいのでしょうか?

 こういう場合はとりあえず原資料に当たってみるのがいいだろうと思い立ち、ツタンカーメン墓発掘に関するカーターによる記録を保管しているというグリフィス研究所のサイトを開きました。
 花束ということなので、「bouquet」でデータベースを検索してみます。すると、6件ヒットしました。このうち、棺のある玄室から発見されたものは205番のLarge funerary bouquet(大きな葬祭花束)です。(※2)ですが、玄室の南西の角から見付かったこの遺物に添えられたカードを見ると、「No flowers and only a single immature fruit of Mimusops(花はなく、ただ未熟なペルセアの実だけがあった)」と書かれていました。それではと、特番にて紹介されていた前室の花束018番のカードを読むと、「No trace of flowers(花の痕跡なし)」とあります。他のbouquetのカードにも、cornflower(ヤグルマギク)という単語は見受けられませんでした。
 「……っていうか、棺の中にあったのは『花輪』なんだよねぇ」と苦笑しつつ、語句を変えて再検索。「花輪」と訳されるものは、254a(1)番のWreath from around vulture and uraeus over forehead(額の上のハゲワシとコブラの周りのリース)第2の棺の上にあった254a番のGarland from over chest and abdomen (胸部と腹部からのガーランド)、第3の棺の上にあった255a番のPectoral garland(胸部のガーランド)です(wreathもgarlandも共に花輪と訳されますが、輪状になっているのがwreathで端が繋がっていないのがgarlandのようです)。これら3つにはヤグルマギクが用いられていることがカードから判ります。
 しかしながら、カードをさらに読むと、これらの花輪は急に作ったものとはとても思われないのです。図解付きで説明されていますが、ヤグルマギクや青スイレンやピクリス・コロノピフォリア(コウゾリナ属)の花、オリーブやヤナギやセルリーの葉、ソラヌム・ドゥルカマラ(ナス属)やマンドレークの実などをパピルスの髄で締めて作られた花輪、しかもオリーブの葉を裏表交互にして色合いに変化をつけたりしたものを複数、突然作ってそっと入れるのは無理な気がします。
 ところで、『ツタンカーメン発掘記』(ハワード・カーター著、坂井傳六・熊田亨訳/筑摩書房/2001)には、石棺の蓋を開け第1の人型棺を発見した時の模様について「これは棺の底にある長さ約7フィート(約2メートル)のすばらしい人型棺のふたであって、王の遺骸をおさめた一組のうち、もっとも外部のものであることは疑いなかった。(中略)横たわったこの少年王の額には、上・下エジプトを象徴する見事な象嵌の二つのシンボル――コブラとハゲタカ――があり、そして、おそらく、人間の素朴な感情をあらわすもっとも感動的なものは、このシンボルの周辺に、小さい花束が置かれてあったことだ。わたしたちは、この花束を、夫に先立たれた少女の王妃が、「二つの国」を代表した若々しい夫にささげた最後の贈り物と考えたい」と書かれているので、棺の中にも「花束」はあったんじゃないかという反論が考えられます。が、これは日本語訳に問題があるようです。というのも、253番のFirst (outermost) coffin(第1の(最も外側の)棺)のカードを読むと、「Around the emblems upon forehead was a floral wreath.(額の上の徽章の周りには花の輪があった)」と書かれているからです。写真を見ても、「花束」というより「花輪」といった方がしっくり来るものであると思われます。このwreathは細長いパピルスの髄にオリーブの葉とヤグルマギクと何か(原文では「...x...」)をより細いパピルスの髄で束ねたもので、オリーブの葉は裏表交互に配されていました。なお、このwreathには独立した遺物番号が与えられていません。記録はできたものの保存がなされなかったということでしょうか。
 また、『ツタンカーメン発掘記』の別のページには、「ツタンカーメンの葬式を一部証明するものは、王の墓から少し離れた谷の中でセオドア・デーヴィス氏が1907、8年のころ発見した大きな陶器の壷のなかの貯蔵物である。壷のなかの貯蔵物は、若い王の葬儀の間に使われたアクセサリーなどで、のちに集めて、壷に詰めこまれたものであった――それがエジプト人の埋葬の風習であったようすである。貯蔵物のなかには、ツタンカーメンおよび粘土製の王陵封印と、葬儀の場に会葬者が身につけていた一種の花輪の首飾りがあった。パピルスの地にぬいつけた花輪の首飾りは、黄金の棺で発見されたものと一対をなしており、陶器の瓶は墓のなかから出たものと同じである」との記述もあり、花飾りは葬儀のためにたくさん作られていたということが判ります。

 「何で突然摘んだ花じゃなきゃいかんのだろう。念入りに作られた花輪じゃ死者を悼む気持ちは感じられないの? 儀礼の一環っぽいから? それともダイイングメッセージっぽくないことが問題?」湧き上がる更なる疑問。そういえば、ツタンカーメン以外のファラオのミイラには花は捧げられなかったのでしょうか? 棺から花束が見つかった王はツタンカーメンだけだと言われているようですが、本当にそうなのか。
 見付かっているファラオのミイラはほとんどが盗掘を受けたものだから、確かめるのは難しいか……と思いつつも本棚を漁ったところ、『ファラオの秘薬』(リズ・マニカ著、編集部訳/八坂書房/1994)という本に「ラメセス2世(紀元前1290-1224)のミイラには、13本の花輪がかけられてあり、多数の青スイレンが花ごと、ミイラを包む布を止めるバンドの下に挿し込んであった。王の棺は紀元前1087年頃、数体の他の王のミイラとともに王家の谷の墓から移されていて、別の墓に埋葬し直されていた。この埋葬場所は荒らされることなく19世紀の終わりまで残ったので、発見された花飾りの製作年は少なくとも再埋葬時まで遡れるだろう。ラメセス2世の花輪は、ほぼ同定が可能と思われ、ペルセアの葉、白スイレンや青スイレンの花びらでできているとみてよいだろう。ドイツの植物学者G・シュヴァインフルト(1836-1925)は、古代エジプトの植物研究の先鞭をつけた人で、これらの花輪の描画を残しており、それは花輪の製作過程をもたどれるほど正確に描かれたものである。実際の遺物は、カイロの農業博物館とパリ国立自然史博物館の植物標本館に保管されている」とありました。(※3)さらに、「第21王朝下のテーベ地方の長だったアメンの祭司ピネジェムは、ラムセス2世のミイラを修復し、首のまわりにハスとスイレンの花の首飾りをつけるよう命じた」という記述を『古代エジプト探検史』(ジャン・ベルクテール著、福田素子訳、吉村作治監修/創元社/1990)にて発見。他にも、イアフメス王(※4)アメンヘテプ1世・2世などのミイラも花輪をつけていたようです。これらのファラオのミイラはカシェ(隠し場)から発見されたので、花輪もおそらく再埋葬の際に作られたものでしょう(アメンヘテプ2世は自身の墓で発見されていますが、その墓は他のミイラの隠し場所にもなっていたので、同様に考えていいのではないかと)。
 ツタンカーメンの棺に花があったのは異例なこととして語られがちですが、多数のミイラを集めて隠す時に包帯を巻きなおすだけでなく花輪まで作ったのなら、棺に花を入れるのは異例どころか慣例だったのではないでしょうか。
 また、未盗掘で発見された第3王朝時代のセケムケト王の棺の上にも花輪がありました。(※5)この棺は遺体も何も納めないまま封印されていたのですが、棺に花を捧げることはツタンカーメンよりずっと以前から行なわれていたということが判ります。

 これまでに見てきたように、どうやら古代エジプトの葬儀に花飾りは付き物のようです。それなのになぜ、ことさらにヤグルマギクばかりが取り沙汰されるのでしょうか。確かに、花の季節からツタンカーメンの埋葬時期を推測することはできます。ですが、他の植物と共に用いられているのだから、ヤグルマギクのみをダイイングメッセージと捉えるには無理があります。というより、なぜ他にも植物が存在したことを伏せてまで、ヤグルマギクをダイイングメッセージとして特別視する必要があるのでしょうか? 別にそんな脚色などなくとも暗殺説は語れるでしょうに。
 実際、「葬祭用の花輪がツタンカーメンの死亡時の季節を教えてくれる。花輪のひとつは、エジプトでは3月中旬から4月の終わりにかけて咲く矢車草で編まれていた。花で作った胸飾りには、マンドレークとツルナスが入っていた。どちらも3月から4月にかけて花を咲かせ実をつける。以上の証拠から、ツタンカーメンは3月中旬から4月末までの間に埋葬されたと推定できる。ミイラ作りに必要な70日を逆算すると、彼が亡くなったのは12月か1月ということになる」という記述が『誰がツタンカーメンを殺したか』(ボブ・ブライアー著、東眞理子訳/原書房/1999)にあります。これはCTスキャン以前のものですがツタンカーメン暗殺説を唱える本です。ただ、この本では花輪から死亡時期が推定できるとしているだけで、ダイイングメッセージであるとまでは言っていません。それに、ヤグルマギク(この本の訳では矢車草)以外の植物が使われていたことが書かれています。
 「ドラマティックなので、毒殺の方が夢があるなぁ」件の特番でゲストがこう言っていましたが、つまりそういうことなのでしょう。事故より殺人事件の方がドラマティックだ、さらにダイイングメッセージが残っていたとしたらいかにもミステリーっぽくて面白い……といった思惑により、バラエティ的に面白いシナリオに都合のいいよう改変されたのだと思います。いろいろな植物があったというより、ヤグルマギクの青く美しい花のイメージを押し出す方がより印象的だから、他の植物については言及しないのだと。
 2005年に行なわれたツタンカーメンのミイラのCTスキャン調査の結果に関して、調査チームリーダーだったザヒ・ハワスは『黄金王ツタンカーメンの素顔』(ザヒ・ハワス著、吉村作治監修、西坂朗子訳/汐文社/2007)「頭蓋骨に『濁った』部分は見られなかった。頭部を殴打された痕跡を示す証拠もまったく見つからなかった。つまり、彼が殺害されたことを示すいかなる証拠も見つからなかった。ただし、CTスキャン画像には写らない方法、例えば毒殺のような方法で殺害された可能性は残る」と述べていたように、毒殺の可能性もないとは言い切れません。怪我で臥せっているのを幸いと、容態が悪化したかに見せかけて毒殺ということも考えられます。しかし、同書の別の箇所にあるように、「足の骨折自体は、ツタンカーメン王の死因には成り得なかったかもしれないが、ここから感染し、死に至った可能性はある」とも言えます。けれども、これら2つの可能性から1つを選ぶ時、判断基準にドラマティックだの夢だのを持ち出すのは、歴史を考える上ではどうかと思うのです。

 卒業後の進路にはなんら影響していませんが、私は学生時代に史学をやっておりました。あまり真面目な学生とはいえませんでしたが、それでも当時聞いた教授の言葉で、ずっと心に残っているものがあります。「歴史にロマンを求めるな」
 「ロマンティックな昔」のイメージを求めるあまり、そのイメージに反する事実を無視したり都合よく作り変えようとしたりするのではなく、あるがままの事実と向き合え――というようなことであったかと、今の私は考えています。
 「擬人化だの捏造カップリングだのに夢中な二次創作同人屋が何を偉そうに」とツッコまれそうですが、そういう奴だからこそ、現実と虚構は区別しておこうと思うのですよ。
 歴史的事実には興味があるし、歴史を題材にしたフィクションも楽しめます。ですが、フィクションを事実と称されるのは困ります。牛肉も豚肉も好きだけどどちらも同じものだとは思わないし、牛肉と偽って豚肉を出されたら怒りますよというか。
 「事故死よりも暗殺の方が受ける話は作りやすいだろうなぁ」とは思います。でも、そこで受け狙いのために話を捏造してはいけないでしょう。事実に基づいた仮説が期待されているであろうところで事実と明らかに違う話をされても困ります。それを事実と信じてしまう人が出てしまうことにも。テレビで地味な話をしても視聴率が取れないんじゃしょうがないという理屈も解りますが、それで事実に反するイメージが蔓延することには心が痛みます。同じ人が昔の方がより事実に近い話をしていたということに気付いてしまうと、なおのこと。

 

 (※1)
墓から出土した遺物につけられた番号は以下の通り。
 1a〜3  入り口の階段
 4  最初の封印扉
 5a〜12c  通路
 13  二番目の封印壁
 14〜170  前室
 28  玄室へと通じる扉
 172〜260  玄室
 261〜336  宝庫
 171  部分的に壊された付属室の封印扉
 337〜620-123  付属室

 (※2)

ツタンカーメン墓平面図

 (※3)

ラムセス2世のミイラにつけられた花のスケッチ

 (※4)

イアフメス王の棺と花輪

花輪拡大

 (※5)

セケムケト王の棺

 まぁとりあえず、ウチはこういうスタンスで行きますよと言うことで。夢がないとの謗りもありましょうが、むしろ夢を見すぎなので自重せねばならんと思ってそうしてる要素も多分にあります。そういえば、Traumとtrügenって同系の言葉でしたっけ。

図版引用元:
 (※2) 『謎のファラオツタンカーメン 発掘にかけたある考古学者の生涯』(フィリップ・ファンデンベルク著、坂本明美訳/佑学舎/1987)  (※3)『ファラオの秘薬』
 (※4)〜(※5)『古代エジプト探検百科』(ニコラス・リーヴス著、岡村圭訳/原書房/2002)

 2010年2月16日、エジプト考古最高評議会のザヒ=ハワス事務局長率いるエジプト・イタリア・ドイツの研究者からなる研究チームは、DNA検査やCTスキャンを用いた調査により、ツタンカーメンは骨疾患や内反足などを患っていて、マラリア(マラリアによる感染症。頭痛・高熱・吐き気などの症状を呈し、悪性の場合は脳マラリアによる意識障害、腎不全などが起こり死亡する)に罹って死亡したことを特定したと発表しました。ツタンカーメンは病弱で歩くのに杖を必要としていて、さまざまな疾患により免疫システムが弱っていました。そんな免疫不全状態の王はおそらく落下により大腿骨を骨折して命に関わる状態となり、さらにマラリアに感染して死亡したと推測されています。
 しかしその後、同年6月23日にツタンカーメンの死因は遺伝性血液疾患の鎌状赤血球症(赤血球の一部が通常の球状ではなく鎌状になって血流が阻害され、慢性痛や感染症、組織死をもたらす)の可能性があるとドイツのベルンハルト・ノホト熱帯医学研究所のチームが発表しました。放射線を用いた検査によりツタンカーメンの足から鎌状赤血球症の形跡が認められたということです。
 いずれにせよ、複数の疾患を抱え不健康であったツタンカーメンの死因はおそらく病気であり、暗殺された可能性は低いと考えられます。
  (2010.08.09. 追記)

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