古代エジプト地図


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 「エジプトはナイルの賜物」というオルドトスヘロドトスの言葉は有名ですが、「エジプト」も「ナイル」もエジプト古来の名称ではありません。

 「エジプト」とは、メンフィスにあったプタハの神殿「フウト・カァ・プタハ Hut-ka-Ptah(プタハの魂の家)」の名がギリシア人に「アイギュプトス Aigyptos」と呼ばれたことに由来する名前です。
 都市「メンフィス Memphis」の名もギリシア語ですが、第6王朝の王ペピ1世のピラミッドの名(各ピラミッドにはそれぞれ固有の名前があった)「メン・ネフェル Men-nefer(確立された美しいもの)」が語源だといいます。古代エジプト語では「イネブ・ヘジュ Ineb-hedj(白い城壁)」と呼ばれていました。
 それでは、古代エジプト人自身は、自分たちの国のことをどう呼んでいたのでしょうか。
 古代エジプト人は自分たちが暮らす地、毎年氾濫するナイル川がもたらす肥沃な黒い土地を「ケムト Kemt(黒い土地)」と呼び、不毛の砂漠「デシェルト Deshert(赤い土地)」と区別していました。ケムトの世界は真黒々女……って、それはビックリマンの官女ケムトの裏書。「ケムト」の意味を知らないと解らないネタだよなぁアレ。ところで、「アルケミー alchemy(錬金術)」や「ケミストリー chemistry(科学)」の語源は「ケムト」だとする説がありますが、私としてはそれよりギリシア語の「ケーメイア Kemeia(変質)」からと考える方が妥当な気がしています。「ケムト」の方が面白いけど。また、「デシェルト」が砂漠を意味する英語「デザート」の語源だとする説明をたまに見かけますが、それはこじつけでしょう。こちらはラテン語の「デーセルトゥム desertum(放棄する、見捨てる)」に由来します。
 肥沃な黒い土地はまた、「タァ・メリ Ta-meri(愛された土地)」と呼ばれることもありました。ええそうです右大臣タメリ。
 ところで、地図にも書きましたが、古代エジプト人は自分たちの国は2つの国、ナイル川上流の「上エジプト」と下流のデルタ地域「下エジプト」からなるものと考えていました。「上エジプト」「下エジプト」は古代エジプト語ではそれぞれ「タァ・シェマウ Ta-shemau」「タァ・メフ Ta-mehu」といいます。ええそうです左大臣シェマウ官女メフ。官女バクトだけがよく判りません、「バク bak(召使)」の女性形かな……って、非ビックラー置いてきぼりですがな。今更だけど。上下エジプトを合わせて呼ぶ時は「タァウィ Tawy(2つの国)」となります。
 ところで、ナイル川は南から北に流れているので、「上エジプト」が南部で「下エジプト」が北部になりますが、地図の上下とは逆なのでパッと見は紛らわしいです。上下ではなく南北で表記している本もたまにありますが、一般的ではありませんね。

 「ナイル Nile」というのは、ギリシア語の「ネイロス Neilos」がラテン語に入って「ニルス Nilus」となり、さらに英語になったものです。ネイロスは海の神オケアノスと海の女神テテュスの息子である川の神々ポタモイの1柱……って、これはギリシア神話での設定ですね。「ネイロス」の語源はアフロ・アジア系の「川」を表す語「ナハル nahal」のようです。
ナイル川を人格化したローマ時代の彫像
 またしてもビックリマンネタになりますが、「ネイロス」の意味を知った時には、「ネロとネイロスを結びつけるって面白いな、っていうかそれやるためのエズフィトか?」と思ったものでした。細かいことを言うと、ネロのスペルはNero、ネイロスのスペルはNeilosですが、まぁその辺でいちいち神経質になっていたらビックリマンなんてやってられません。ちなみに、「ネロ」は「力強い」といった意味の名前です。結構キャラに合ってるような。
ファラオの扮装をしたネロと思しき皇帝像
 古代エジプト語では、ナイル川のことは「イテルウ iteru(川)」と呼んでいました。ナイル川の恵みを象徴する神(川そのものの神格化ではないらしい)は「ハァピ Hapy」です。ハァピはしばしば上エジプトのハァピ(頭上にスイレンを戴く)と下エジプトのハァピ(頭上にパピルスを戴く)の2体で描かれますが、このことからも古代エジプト人は自分たちの国が「2つの国」であることを重視していたことが窺えます。古くはハァピが住むとされた第一急端付近の洞穴がナイルの水源だと考えられていました。後にエジプト人たちが第一急端より上流まで遡るようになっても、件の洞穴は象徴的な水源として崇められました。

 ところで、冒頭で引いたヘロドトスの名言ですが、これは『ヘロドトス 歴史(上)』(ヘロドトス著、松平千秋訳/岩波書店/1971)の「今日ギリシア人が通航しているエジプトの地域は、いわば(ナイル)河の賜物ともいうべきもので、エジプト人にとっては新しく獲得した土地なのである。それのみならず、モイリス湖の上方(南方)遡航三日間に及ぶ地域もまた――祭司たちの話はこの地方にまでは及んでいないが――、前述の地方と同様な例といってよい。エジプトという国の地勢を一言でいえばこうである――まず海路エジプトに近付き、陸地からなお一日の航程の距離をおいて測鉛をおろしてみると、泥土が上ってきて水深は十一オルギュイアであることが判る。これによって沖積土が実にこのあたりまで及んでいることが知られるのである」という文章の一部を抜粋したもので、要するに「現在あるナイルデルタはナイル川が運んだ土によってできたもの」というぐらいな意味でした。「エジプト文明が栄えたのはナイル川のお蔭」のような、現在流布している解釈はいわば後付けなのです。
 とはいえ、ナイル川はやはり古代エジプト人のものの考え方に強い影響を与えたことは確かなようで。例えば、東と左、西と右はそれぞれ同じ語で表されました。ナイルの上流に向かうと左側が東、右側が西になるからです。また、ナイル川の他に川というものを知らなかった彼らにとって、「川は南から北に流れる」というのは「太陽は東から上って西に沈む」のと同じくらい当然のことでした。そのため、北から南に流れるユーフラテス川を見た時は驚いて、「ペケル・ウル Pekhr wr(偉大なる方向転換するもの)」と呼んだのでした。

 

写真図版引用元:『古代エジプトの世界』チャールズ・フリーマン著、内田杉彦訳/原書房/1999

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