ショロトルが泣いたのは、


 先日、注文していた『Florentine Codex: General History of the Things of New Spain: Book 7- Sun, Moon and Stars, and the Binding of the Years』( Bernardino De Sahugun著 / Charles E. Dibble・Arthur J.O. Anderson訳 / The School of American Research and the University / 1953)(以下『フィレンツェ絵文書・第7書』と表記)が届いたので、さっそく踏み台昇降運動をしながら読んでおりました。
 すると、その中になんだか引っかかる記述が。※ 日本語訳と( )内の注は約翰による。なお、約翰の英語力は壊滅的であることをご承知おかれたし。
 「そしてこのこと(火中に身を投じたナナワツィンとテクシステカトルが太陽と月として転生し、明るすぎるとして月の光が弱められたこと)がなされた時、両者は共に現われることができたが、一方で、動くことも軌道を辿ることもできなかった。彼らはただ静かに動くことなく留まっていることができるだけであった。そこで、神々は今一度話し合った。「我々はどのようにして生きるだろう? 太陽は動くことができない。もしかすると庶民の間で生きるのか? こうしよう、我々を通じて太陽が蘇るかもしれない。我々はみな死のうではないか」
 それから神々を殺すことがエエカトル(ケツァルコアトル)の役目となった。しかし次に述べるように、ショロトルは死ぬことを望まなかった。彼は神々に言った「私を死なせないでください、おお、神々よ」。彼はあまりに泣いたので、彼の眼と瞼はあふれ出してしまった。
 そして死が彼に迫ったとき、彼はその場から逃げ出した。彼は走ってすばやく緑のトウモロコシ畑に入り、畑で働く人々がショロトルと呼んでいる二股のトウモロコシに急いで変身した。しかし緑のトウモロコシ畑で彼は見つかってしまった。彼はもう一度逃げ出し、リュウゼツラン畑に入ってメショロトルと呼ばれる二股のリュウゼツランに急いで変身した。彼は再び見つかってしまったので、急いで水中に入りアショロトル(アホロートル・メキシコサラマンダー)と呼ばれる両生類の姿をとった。そこで彼ら(神々)は彼を殺すために捕まえに行くことができた。
 そして、全ての神々が死んだにもかかわらず、太陽神は動くことも軌道をたどることもできなかったと彼ら(アステカの人々)は言う。そういう訳でそれはエエカトルの仕事となり、彼は激しく猛烈に吹きつける風として尽力した。すぐに彼(エエカトル)は彼(太陽神)を動かすことができた」
 「ショロトルって、仲間の神々が太陽を動かすための生贄になって死んでしまったのが悲しくて泣いたんじゃなかったっけ?」
 ケツァルコアトルの双子だとか分身だとか、不幸の神だとか、両目がなくなってしまっているだとか、しかもそれは生贄として死ぬことを崇高なものとするアステカにあって犠牲となった仲間たちを悼んでのことだとか、……常日頃から、アステカ神話を題材に創作をしようとするなら実に興味深い存在だろうと思っておりました(ウチでは今のところまだ何もないけれど)。有態に言えば、萌えますよね。おいしい設定ですよね。なのに、いきなりこれですよ。なんかこれじゃ、ショロトルは単に自分が死ぬのが嫌で泣いて、挙句逃げ出したように取れるんですけど。しかも結局捕まって殺されてるし。
 Wikipediaにも「ショロトル(Xolotl)は、アステカ神話の金星の神。炎と不幸の神でもある。 ケツァルコアトルの双子とされる。脚が後ろ向きの犬の姿をしており、その眼窩は空洞である。 かつて神々が太陽を作り出そうとしていた時、 多くの神々がその身を犠牲にしなければならなくなった。 ショロトルは嫌がったが、 他の神々はこの世に太陽をもたらすために、その多くがその身を太陽に捧げていった。 かくして太陽は完成したが、ショロトルは仲間のいない寂しさに耐えられずに号泣し、余りの涙の量に両目玉まで流れ出てしまった。 そのため、ショロトルには眼球がないとされている。別の説では、太陽の生け贄になる事を嫌がり、水の中に逃げ込みメキシコサラマンダーになったとされている」と書かれているのに……って、しかしこれをもって『フィレンツェ絵文書・第7書』の記述を否定する訳にはいかんだろうっていうか、おそらく多分きっとそっちが原典だし。いやむしろ、なぜ原典とは異なった設定の方が広まってしまっているんでしょうか?

 「なぜ原典とは異なった設定の方が広まってしまっているのか」ということも気になりますが、その前に、Wikipediaの記述を読んで疑問に思ったことの3つほどについて考えてみることにしました。
[1] 「ショロトルは仲間の神々が太陽を動かすための生贄になって死んでしまったのが悲しくて泣いた」という設定の出所はどこか?
[2] 『フィレンツェ絵文書・第7書』では「泣く→逃げる→殺される」なのに、Wikipediaでは「引き下がる→生き残る→泣く」という流れになっているのはなぜか?
[3] ショロトルが、泣いて目玉が流れ落ちた話とメキシコサラマンダーになって逃げた話とは『フィレンツェ絵文書・第7書』では一続きなのに、なぜWikipediaでは別の説ということになっているのか?

 [1]に関して、真っ先に思い浮かんだのは『世界神話伝説大系16 メキシコの神話伝説』(松村武雄編 / 名著普及会 / 1928年初版・1980年改訂)の「IIメキシコの神々 21 ソロトル神」と「III ナフア族の神話伝説 5 眼が泣いて抜け落ちた神」でした。なお、後に挙げた方は、『マヤ・インカ神話伝説集』(松村武雄編 大貫良夫・小池佑二解説 / 社会思想社 / 1984)にも「ナワ族の神話伝説 眼を泣き出した神」のタイトルで同じ話が収録されています。これら2冊は『神話伝説大系 メキシコ・ペルー神話伝説集』(松村武雄編/近代社/1928)を復刻あるいは再録・再編したものです。古い本ですが、現在でも多くの人に読まれ参照されています。なので、これらが件の設定の広まった切っ掛けということは、いかにもありそうなことだと感じました。しかし、実際にはどうなのでしょう?
 「「IIメキシコの神々 21 ソロトル神」より、ショロトルの眼がないことに関する説明部分
 なぜに目の玉を持っていないかということは、説明に苦しまざるを得ぬ。もっとも後で説くように、一個の神話に従えば、自分の仲間の神々が死ぬのを悲しんで、あまりひどく泣いたために目の玉が二つながら飛び出してしまったというのであるが、こうした説明はあてにならぬ。
 「III ナフア族の神話伝説 5 眼が泣いて抜け落ちた神」
 昔、神が相談をして太陽をこしらえた。太陽が出来上がると、一人の神が、
「これに命と力とを与えなくてはならぬ」
といった。
「そうだ、ただつくりっぱなしでは仕方がない。強い光であまねく世界を照らさせるには、どうしても命と力とを与えなくては駄目だ」
と他の神が応じた。
「では、どうしたら太陽に命と力とを与えることが出来るだろう」
とまた一人の神がいった。
「それには、わしたちが犠牲にならなくてはなるまい」
と他の一人の神が答えた。
 こうして神々は、出来たての太陽に命と力とを与えるために、自分たちのうちから幾人かの犠牲を出すことに話をきめた。するとソロトル(Xolotl)という神が顔色を変えて、
「ばかばかしい。たかの知れた太陽などのために、自分たちが命を捨てるなんて、そんな愚かなことがあるものか」
といい出した。しかし他の神々は、
「いや決して愚かなことではない。太陽が強い光を放つようにならなくては、世界はいつまでも闇ではないか。そして寒気のために人間どもが死に絶えてしまうではないか。どうしてもわしたちのうちから犠牲を出さなくてはならぬ」
といい張った。これを聞くと、ソロトルは悲しそうな顔をして、
「それでは死にたいと思う者が死ぬがいい。自分はそんなつまらぬことに命を投げ出すのは嫌だ」
といって、神々のいる所から引き下がってしまった。
 ソロトルはただ一人になると、
「ああとんだことになってしまった。日頃仲良くしている神々が幾人か死んで行くとは、何という悲しいことだろう」
といって、声を放って泣き出した。泣いて泣いて泣き続けているうちに、とうとう目の玉が二つながら眼窩から抜け落ちてしまった。
 だからソロトル神は今でも空洞のようになった眼窩をしているのである」

 さて、『神話伝説大系 メキシコ・ペルー神話伝説集』の編者は主要な参考文献として以下の書物を挙げています。
《1》 Brinton (D.G.), Myths of the New World.
《2》 Brinton, American Hero-Myths.
《3》 Markham (C), Rites and Laws of the Incas.
《4》 Müller (J.G.), Geschichte der amerikanischen Urreligionen.
《5》 Payne (E.J.), History of the New World called America.
《6》 Rèville (A.), The Native Religions of Mexico and Peru.
《7》 Spence (L.), Myths of Mexico and Peru.
《8》 Spence, Mythologies of Mexico and Peru.
《9》 Spence, Dictionary of Non-classical Mythology.
《10》 Waitz (Th.), Anthropologie der Naturvölker.
 私は《3》以外を見ましたが(《3》はインカに関するもので今回の話題には関係なさそうだから)、「IIメキシコの神々 21 ソロトル神」はほぼ《7》のショロトルの項に基づいて書かれていたよなと思い出しつつもう一度読んでみました。以下はその中のショロトルが両目のない姿で描かれることに対する説明です。
彼は空っぽの眼窩を持つ姿で描かれるが、神話が説明するところによると、新しく創造された太陽に生命と力を与えるために神々が自ら犠牲となることを決意したとき、ショロトルは引き下がり、そしてあまりに泣いたため彼の両目は眼窩から落ちてしまった。これはサポテカ人の表徴のメシーカ人による説明であった。(余談ですが、スペンスも別にこの伝承をそのままショロトルの両目がないことの理由とはしてませんよね。サポテカ起源の神ショロトルを自分たちの信仰に取り入れたもののその姿の意味するところが解らなかったメシーカ人が、自分たちの納得がいく説明としてひねり出したものだというような意図で「これはサポテカ人の表徴のメシーカ人による説明であった」と言ったんですよね、きっと……っていうか、これはエドゥアルト=ゼーラーの「Antiquities of Guatemala」(『Bulletin 28 of the Bureau of American Ethnology, 1904: Mexican and Central American antiquities, calendar systems and history』Eduard Seler他著 / Charles P. Bowditch監訳 / Washington goverment printing office / 1904 に収録)を参考に書かれたっぽいです)
 「自分の仲間の神々が死ぬのを悲しんで」というフレーズは、《7》にはありませんでした。そしてどうも他の参考文献にもないようです。なお、リストにない文献を参照した際は、そのつど本文中に( )でくくって示してあるので、リストにない本の中にあった記述である可能性は低いです。基にした本にはなかったものがひょっこり現われるなんて、いかにも臭いますね。

 『神話伝説大系 メキシコ・ペルー神話伝説集』の編者には参考文献にない描写を付け加える傾向があるということは、当サイトギャラリーの「巫術氏の悪計」のコメントで引いたテスカトリポカの科白が実はネタ元である《7》にはなかったということからも伺えますが、他にもそういうのは色々あるので、少々例を挙げてみます。

  参考文献 メキシコの神話伝説
太陽の出現  ナナワトルの神話は、太陽創造以前には人類はいかに陰鬱で恐ろしい暗闇に住んでいたかということを語っている。人身供儀のみが発光体(訳注・太陽のこと)の出現を促すことができた。メツトリ(月)はナナワトルを生贄として導き、そして彼は火葬用薪の上に投じられ、炎の中で焼き尽くされた。メツトリ自身も燃え盛る炎に身を投じ、そして彼女の死と共に太陽は地平線の上に昇った。《7》
 昔は世界に太陽がなかった。世界中は真っ暗であった。人間は闇の中で寒さに震えていた。
 人間たちは困りきって、メツトリ(Metztli――月)に訴えた。
「一人の人間が犠牲にならなくては、太陽は現れないよ」
とメツトリがいった。人間たちは闇と寒気も嫌であったが、命を失くするのはなおさら嫌であった。だからメツトリからこういわれると、お互いに顔を見合せて黙りこくっていた。
 メツトリはナナフアトルという者をひっ捕らえて、
「そなたが犠牲になるのじゃ」
といった。ナナフアトルは仕方がないのでその言葉に従うことにした。メツトリは、屍を焼く薪を山のように積み上げて、それに火をつけた。火が炎々と燃え上がると、メツトリはナナフアトルをつかんでその中に投げ込んだ。ナナフアトルの体は見る間に焼け焦げてしまった。じっとそれを見ていたメツトリは、
「ナナフアトル、そなたばかりを死なせはせぬよ。わしも一緒に死ぬのじゃ」
というなり、たちまち身を跳らせて炎の中に飛び込んだ。
 人々は二人の死を悲しみながら、一心に東の空を眺めていた。暫くすると、遥か彼方の地平線の辺りがほの紅くなった。と思うと、円くて真っ赤なものがぬっと現れて、あたり一面に眩しいような光を投げかけた。
「太陽が現れた、太陽が……」
と、人々はこう叫んで、嬉しさに踊り回った。
妻奪い  我々は彼女(トラソルテオトル)を目的とした神々の戦いについて聞き知っている。トラロックの妻であるにもかかわらず、彼女はテスカトリポカに愛されそして奪い去られた。《6》

 トラソルテオトル――愛の、いやより正確には肉欲の女神――は、アステカのオリュンポスの神々がおこなった恐るべき戦いの目的となった。彼女の住まいは美しい庭園で、そこに彼女は音楽家や浮かれ騒ぐ者たち、小人や道化師に囲まれて暮らしていた。彼女はかつては雨の神トラロックの配偶者であったが、テスカトリポカと駆け落ちしてしまった。《8》
 雨の神トラロックの妻にトラゾルテオトル(Tlazolteotl)という女神があった。
 トラゾルテオトルは、多くの女神のうちで一番美しかった。ふさふさした髪の毛、肉づきのいい体、ふっくりと豊かに盛り上がった乳房、そして五体から光明がさすかと思われるほど麗しかった。
 だからトラロック神は心からトラゾルテオトルを愛して、片時もそのそばを離れぬようにしていた。大勢の男の神たちは、それが羨ましく妬ましくて堪らなかった。そして誰も彼も心の中では、
「トラロック神は本当に果報者だな。わしにもあんな美しい妻があったら、どんなにいいだろう。何とかしてトラゾルテオトルをわしのものにしたいものだな」
と思ったが、しかし、トラロック神はなかなか勢力のある神なので、誰も心の中で思っていることを実行しようとはしなかった。
 すると、ある日、神々のうちで一番勢力の強いテズカトリポカが、みんなの神に向かって、
「トラゾルテオトルは、実に美しい女ではないか」
といい出した。神々はお互いに顔を見合わせて、にやにやと笑うだけで、何とも答えなかった。と、テズカトリポカ神がさらに言葉をついて、
「誰かあの女をトラロック神の手から奪い取る者はないかね」
といった。神々はまた顔を見合わせたが、やがて、
「そんなことは思っても駄目です。トラロック神の祟りが恐ろしいですからね」
と答えた。テズカトリポカ神は、暫くの間黙っていたが、やがて、
「みんな臆病者ばかりだな。よし、それではわしがあの女を奪い取って見せよう」
といい出した。神々は驚いて、
「およしなさい。そんなことをすると、碌な目には遭いませんよ」
とおし止めた。と、それがぐっと癪にさわったと見えて、テズカトリポカ神は、たちまち目を怒らせて、神々を睨みつけた。そしてきっぱりした口調で、
「いや、そういうなら、わしは意地づくでもあの女をわしのものにして見せるぞ」
といった。
 ある日トラロック神は、下界に雨を降らせるために、自分の館を出て行った。あとにはトラゾルテオトルだけが残っていた。いい機会をねらっていたテズカトリポカ神はそれを見ると、すぐにその館に訪ねて行った。そして言葉巧みにトラゾルテオトルにいい寄ると、愛欲と奢侈との女神だけに、彼女は、テズカトリポカのような偉い神と一緒になったら、さぞかし楽しいことであろうと思って、とうとうその言葉に従うことになってしまった。
 テズカトリポカ神は非常に喜んで、
「あの男が帰って来ると面倒だ。今のうちにここを立ち退くことにしよう」
といったかと思うと、たちまちトラゾルテオトルのしなやかな体を小脇に引っかかえて、どこともなく姿を隠してしまった。
 帰って来て妻がいなくなったことに気がついたトラロック神は、さっと顔色を変えて、あたりを隈なく探し回った。しかし、どこにも妻の姿が見えないので、大急ぎで、神々のいる所に駆けつけて来た。
 そして声荒げて、
「わしの妻を隠したのはお前たちだろう。さあいえ。いわないと、ひどい目に遭わせるぞ」
と叫んだ。これを聞くと神々は心の中で、さてはと思ったが、トラロック神の怒りを恐れて、誰一人口をきくものがなかった。トラロック神はますます猛り立って、
「早く白状しないか。よし、いつまでも黙っているなら、片端から叩き殺してしまうぞ」
と叫んだ。神々は困ってしまって、とうとうテズカトリポカ神がトラゾルテオトルを奪って行ったと話した。
 テズカトリポカの名を聞くと、トラロック神の真っ赤になった顔から、見る見る血の気があせて行った。神々のうちで一番勢力のあるテズカトリポカの仕業と聞くと、どんなに口惜しくても、どんなに腹が立っても、どうにも手の出しようがなかった。トラロック神は歯がみをして突っ立っていたが、やがてすごすごとおのが館に帰って行った。

 ……大体、こんな感じですよ。だから多分、ショロトルが「自分の仲間の神々が死ぬのを悲しんで」泣いたあまりに両目が流れ出してしまったというのも、『神話伝説集』を編む過程で付け加えられたものなんじゃないかと思うんです。短い説明を想像によって膨らませ整形して、一個のまとまった物語にするために。
 また、[2][3]についてですが、これらの答えも同様のものになりそうです。参考文献リストに『フィレンツェ絵文書』あるいは『新スペイン全史(『ヌエバ=エスパーニャ総覧』の『神話伝説集』編注における表記、『フィレンツェ絵文書』のスペイン語テキストをまとめたもの)』が挙げられていないことから推して、編者は直接それらを読むことはせず、リスト内の本の記述を利用するにとどまっていたのでしょう。
 そんな訳で[2]は、「新しく創造された太陽に(中略)両目は眼窩から落ちてしまった」という文から物語を作るにあたり、両目を失ったところを話のオチにして、まとまりを良くするために「自分の仲間の神々が死ぬのを悲しんで」という設定を追加した。その際、原典は読んでいないので、元々の話の流れに煩わされることなく改変を行なえた……といった次第だったんじゃないかな、と思うんですがどうでしょう?
 そして[3]は、参考文献には変身して逃げたエピソードがなかったので、『神話伝説集』にも書きようがなかったのでしょう。それから時は流れ現代、Wikipediaの記事を書いた人は、『神話伝説集』の記述と、変身して逃げたエピソードを紹介しているが涙のあまり両目が流れ出たことについては触れていない他の資料とを併用したため、それぞれは独立した別々の説だと勘違いしたのだと推測されます。原典であろう『フィレンツェ絵文書・第7書』を参照していれば、こういうことにはならなかったと思います。

 それから、先の疑問、「なぜ原典とは異なった設定の方が広まってしまっているのか」ですが、これはやはり、「アステカ神話に関するまとまっていて読みやすい資料が、『メキシコの神話伝説』ないし『マヤ・インカ神話伝説集』以外にはあまりないから」ということになるのでしょう。やっぱり物語仕立てになっているものの方が取っ付きやすいですよね。しかも大き目の図書館にはたいてい置いてあってアクセスしやすいし。そういう資料って他にないんですよ。少なくとも私には思いつきません。だから、大本が古い本であるにもかかわらず、今なお頻繁に参照されているんだと思います。で、それらを参考にして再生産されたものがウェブ上などに出回ることでさらに広がっていった、と。いくら編者自身が、「メキシコおよびペルーの神話伝説を編著するに当たって、自分が用いた書物は、(リスト略)等である。なかんずく主として用いたのは、レウィス・スペンス氏の著作であった。氏の著書は専門的ではない。通俗書の高級なものである。だから科学としての立場からいえば飽き足らぬところも少なくないが『世界神話伝説大系』で狙っている程度にはぴたりと合っているので、主としてこれに拠ることにしたのである」すなわち『神話伝説集』もまた専門的ではない、通俗書の高級なものであると言っているからといって、まさかここまで創作が入っているとは普通予想しないでしょうし……いや、私は偶然気付いてしまっただけだし変態だし。

 

 それにしてもこんな話、専門家からすれば「何を今更」なんでしょうね。でも、こういう話って一般人向けにはなかなか出てこないじゃないですか。だから、欲しけりゃ自分で掘りに行くしかないんですよ。ファン暦1年ちょっとのニワカの手には余る仕事だと思いながらも。

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