BIZEN中南米美術館

 「アステカの遺跡とか遺物とか見たい!」とは思っても、そう簡単にはいかないものです。けれども、私が住んでいる岡山県には日本唯一の古代中南米専門の美術館があり、彼の地の雰囲気を幾許なりとも感じることが出来ます。これは紹介しない訳にはいきません。何しろ私はBIZEN中南米美術館の回し者広報大使だから!
 しかしながら、「インカ・マヤ・アステカだけが古代中南米じゃない。他にも面白いものが沢山あるよ!」というのがこの美術館のテーマのひとつだろうとは思いますが、当サイトはアステカ神話マニアの管理人がアステカ神話に興味がある閲覧者のためにアステカ神話について語っているサイトなので、美術館紹介もアステカネタが多くなってしまうことをあらかじめ申し上げておきます。恨むなら、なかなか一般人向けに情報を発信してくれないアステカ研究者の方々を恨んでください。
 館内は写真撮影・公開OK(フラッシュはNG)なので、私や家族が撮った写真をこのページにも乗せますが、新旧混ざっていることをご了承ください。
 


 備前焼の陶板で壁面を覆われた建物が、住宅や商店の立ち並ぶ中に結構唐突な感じに現れます。入り口の向かって左にはホンジュラスのマヤ遺跡コパンの石碑Hのレプリカが立っています。これはアイリーン・ニコルソン『マヤ・アステカの神話』ではマヤの水の神イシチェルだと説明されていますが、実際には695年に即位した第13代コパン王ワシャクラフーン・ウバーフ・カウィールがトウモロコシの神に扮している姿です。『マヤ・アステカの神話』の原著が出版された1967年頃にはまだマヤ文字の解読があまり進んでいなかったため誤解もやむなしと言ったところではあるのですが、同書の日本語版が出版された1992年にはマイケル・コウ『マヤ文字解読』の原著が発行されていたということを思い出すと暗澹たる気持ちになります。
 

 ……入館する前から落ち込んでどうする。中に入ると、受付とミュージアムショップがあります。ショップではこの美術館の顔とも呼べるような展示品にしてゆるキャラのペッカリーのグッズや、ラテンアメリカのオーガニック食品、マヤ神守護札ストラップなどのお土産が購入できます。アステカ神守護札は残念ながらありませんが……こと神話に関してはインカ・マヤ・アステカの中ではアステカが人気なのでグッズ化希望と要望を出してはみましたが、いまだ実現はならず。アステカファン的にお勧めのお土産は、やはりリュウゼツランシロップ「百年の蜜」でしょうか。マヤウェルのラベルが目印です。食後に血糖値が上がりにくいなど健康に気を遣う人にも良さそうです。楽天市場にも出店されているので、買いそびれたとか重いから持ち歩きたくないとかまた欲しくなったとかいうときにも安心。

 美術館といっても堅苦しさはなく、キャラクターが展示品について語るという親しみやすい解説で、馴染みの薄い地域や時代にもとっつきやすくなっていると思います。具体的にはこんな感じ。自分達が楽しいと思うものをお客さんにも見てもらおうという気持ちが伝わってきますね。


 この美術館の看板キャラ、エクアドルのヘソイノシシ土偶ペッカリー。
 この美術館だけではなく、日生のB級グルメのカキオコや岡山が発祥の点字ブロックなど様々なものをアピールするべく、「天使過ぎる歌声」を活かしてCDを出したりライブをしたりと精力的に活動中です。

 TVの取材を受けるペッカリー(着ぐるみ)。ツイッターでも情報発信するなど色々やってます。9歳の男の子という設定ですが、発言内容が時々子供っぽくないのはやっぱり中の人(ry ……ペッカリーが歌う「オイラ土偶のペッカリー」はカラオケのLIVE DAMで歌えるので、興味のある方はCDを買って覚えて歌ってみてはどうでしょう。

 かつてはチョイ悪キャラだったペッカリー(黒歴史?)。
 

 アステカファン的に見逃せないものは、やはりチャックモール(レプリカ)と聖なる戦いの神殿(レプリカ)でしょう。

 チャックモールとは両膝を立てて仰臥し顔を横に向け腹の上に供物を入れる器を捧げ持った人物像です。チャックモールchacmoolという用語は1875年にオーギュスト・ル・プロンジョンがチチェン・イツァの鷲とジャガーの神殿で発掘した像につけた名称チャークモルChaacmol(ユカテク・マヤ語で「雷のように素早い鉤爪のある脚」)が元ですが、1877年に出版されたル・プロンジョンの論文ではチャークモルはチャックモール(古ユカテク語で「ピューマ」ないし「ジャガー」の意)に変更されました。ル・プロンジョンはこの像はかつてこの都市を支配した古代マヤの強力な戦士君主を表現した彫像であると考えていました。また、初期の研究者達はこの像をプルケの神テスカツォンカトルを表わしたものだと解釈してもいました。後の研究ではこのポーズは赤ん坊を表わすマヤの象形文字ウネンunenに似ているという指摘もあります。
 チャックモールは中央メキシコとユカタン半島から発見されており、特にトゥーラとチチェン・イツァから多数見付かっています。トゥーラとチチェン・イツァではおそらく供物を入れるか生贄の儀式のために、大抵は神殿の控えの間に置かれていました。
アステカのチャックモールは耳飾などにトラロックの図像的特徴を備えており、テンプロ・マヨールのトラロックに捧げられた側から出土しています。マヤのチャックモールもまたトラロックの図像的特徴を持っています。
BIZEN中南米美術館に展示されているチャックモールは、テンプロ・マヨールの7期に分けられる建築段階の2期目(1375-1427、第1~3代メシコ君主アカマピチトリ、ウィツィリウィトル、チマルポポカの治世に相当)に建造された神殿基壇から発見されたもののレプリカです。この建物はウィツィロポチトリ側の階段の下から発見された石に刻まれた「2の兎」(1390年に当たる)の文字から、おそらくテノチティトランの初代王アカマピチトリの時代に作られたと推測されます。なお、神殿のウィツィロポチトリ側では心臓を取り出される人物の背中を支える石の台テチカトルが発見されていますが、こちらのレプリカはありません。
 このレプリカは、2007~8年にかけて開催された『失われた文明 インカ・マヤ・アステカ展』のために作られたものでしたが、終了後はここで第2の生を送っています。『インカ・マヤ・アステカ展』ではあまり近付いて見られなかったこの像も、ここではぐっと近付いて観察できるし写真も撮れます。


 そしてもう1つ、この石彫は1831年にメキシコ国立宮殿の基礎から発見されました。聖なる戦いのテオカリTeocalli de la Guerra Sagradaという名称は1927年にアルフォンソ・カソが命名したものです。テオカリとはナワトル語で神の家すなわち神殿を意味します(ここから先はテオカリ石と呼びます)。
 左下の「2の葦」の絵文字から、製作年は1507年と推定されます。「2の葦」の年にはアステカでの1世紀に当たる52年ごとに行われた「新しい火の祭り」が催される年で、このテオカリ石はそれを記念して作られたと考えられています。


 モテクソマ2世の玉座だと説明されることが多いですが、神殿を模した祭壇で『フィレンツェ絵文書』第3書第2章にはテスカトリポカの観覧席だと書かれた塚ないし礼拝所モモストリであったという説もあります。
 ピラミッド上部(玉座ならば背もたれとなるところ)には中央の「4の動きの太陽」をはさんで立つ2人の人物が浮き彫りされています。向かって左側はメシカ人の守護神ウィツィロポチトリ、右側はテスカトリポカだともジャガーの皮をまとい沈み行く太陽に扮したモテクソマ2世だとも言われています。ウィツィロポチトリの方の側面には「1の燧石」、反対側には「1の死」の印が彫られています。「1の燧石」はカマシュトリやウィツィロポチトリ、「1の死」はテスカトリポカと結びついた日ですが、共にこめかみに煙を吐く鏡(『ボルボニクス絵文書』でテスカトリポカが着けているものに似ている)があるので、両方の日付ともテスカトリポカと関係しているとする解釈もあります。「1の燧石」「1の死」の印はテオカリ石だけではなくシウモルピリ「束ねられた年」にも彫られているものがあります(これのレプリカはない)。シウモルピリは52年分の年を葦の束として表わした、いわば世紀を形にしたものです。

 エドゥアルト・ゼーラー「メキシコの考古学」より(『メソアメリカ言語学・考古学論集』収録)。ただし、ゼーラーはこれはオマカトル神(名の意味は「2の葦」)の腰掛だと考えていました。

 「2の葦」の年のパンケツァリストリの月に「新しい火の祭り」が行われ、ティティトルの月に「束ねられた年」を埋葬することで古い世紀が終わり新しい世紀が始まると考えられました。「新しい火の祭り」の記念碑であるテオカリ石や前の世紀の終わりに埋葬されるシウモルピリにウィツィロポチトリやテスカトリポカの日の印が刻まれているのは、古い世紀と共にこれらの神々も一度死んで新しい世紀の始まりにまた生まれ変わるということかもしれません。
 テオカリ石の背面には水面に横たわる人物の口から生えたウチワサボテンに鷲が停まっている図案が彫刻されていて、「鷲がサボテンの上に停まっている場所がメシカ人が住むべき約束の地である」というテノチティトラン創設神話を表わしています(「鷲がサボテンの上で蛇を咥えている場所」とされることが多いですが、実際には蛇は描かれていない例がかなりあります。重要なのは「鷲とウチワサボテン」です)。鷲のくちばしからは水と火「アトル-トラチノリ」が出ています。「アトル-トラチノリ」は戦いの象徴であり、鷲だけではなく「1の燧石」「1の死」の印や神々の口からも発しています。また、鷲はウィツィロポチトリ、ウチワサボテンはトラロックとそれぞれ関係があります。トルケマダ『インディアスの王朝』にはメシカ人の2人の神官アショロワとクアウコアトルが定住地を探しているとアショロワが水中に引きずり込まれ、そこでトラロックに会い、「我が愛息子ウィツィロポチトリを歓迎する。全てのメシカ人に告げよ、ここがお前達が定住し、支配し、褒め称えられるべき場所であると」と言われたという話があり、彼の地で古くから崇拝されていた神トラロックに新たにやってきたメシカ人とその守護神ウィツィロポチトリが認められたとすることで新しい町の建設を正当化したものと思われます。テンプロ・マヨールはトラロック神殿とウィツィロポチトリ神殿が並んだ造りになっているのも、テノチティトランにおいてこれら2神が特に重要であったことの現れです。
 テオカリ石とは、このようなメシカ人の神々や時間や都市にまつわるイメージが盛り込まれた記念碑です。
 

 ……自分が気になった展示物について書いていたら、やたら長くなってしまいました。でも他の展示物も面白いです! もちろんアステカ的にも見所はありますが、「インカ・マヤ・アステカ」以外の古代中南米の魅力も感じられます。とにかく百聞は一見に如かず、ぜひご自身の目でお確かめください! 私はアステカマニアだからアステカの話ばかりしますが、それ以外も楽しんではいるんですよ。いや本当。



 

 

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