有名だからといって信頼できるとは限らないアステカ神話のあれこれ・その2

 ケツァルコアトルはトラロックとその子供たちと球技をした

 これは『太陽の伝説』の中のトランの滅亡エピソードに基づいていますが、正確には「トランの王ウェマクが雨の神々トラロケと球技をした」です。勝利の賞品として翡翠とケツァルの羽根を要求したウェマクに対しトラロケは「我らの翡翠とケツァルの羽根」としてトウモロコシを贈ったが、ウェマクは拒否しました。そこでトラロケは翡翠とケツァルの羽根を贈りましたが、トウモロコシを隠してしまいました。そして「トルテカの民は4年の間苦しむことになるだろう」と言い、その言葉通りトルテカ人は4年間飢饉に苦しむことになったのでした。

 テスカトリポカはトウガラシ売りに化けてケツァルコアトルの娘を誘惑した

 これは『フィレンツェ絵文書・第3書』の中のトランの神官王ケツァルコアトルと3人の妖術師のエピソードに基づいていますが、正確にはウェマクの娘です。先に挙げた例もですが、『マヤ・アステカの神話』の著者アイリーン・ニコルソンは「ウェマク=ケツァルコアトルの別名」として一律に置き換えているようです。確かに、アルバ・イシュトリルショチトルの『Sumaria Relación de Todas las Cosas que han sucedido en la Nueva España...(ヌエバ=エスパーニャで起こったすべてのことと(略)に関する概要報告 )』ではケツァルコアトルとウェマクは同一人物として書かれています。しかし、他の史料には違った記述もあります。このケツァルコアトルとウェマクの件に関しては後ほどもっと詳しく調べるつもりですが、それはまたの機会に。
 ここでは差し当たって、ケツァルコアトルとウェマクが別人である例として、『クアウティトラン年代記』ではトランのウェマクが2人組の妖術師ヤオトルとテスカトリポカの化けた女たちと同棲してしまったためにケツァルコアトルを辞めたことや、ドゥランの『ヌエバ・エスパーニャ誌』では2人組の妖術師ケツァルコアトルとテスカトリポカが娼婦ショチケツァルをトゥーラ(トラン)の王ウェイマク(ウェマク)の部屋に送り込んで陥れようとし、その結果ウェイマクはトゥーラを去ることにした、などを挙げておきます。っていうか、すべてのウェマクがケツァルコアトルの別名に過ぎないのだとしたら、ケツァルコアトルはでかい尻の女に固執したために命を落とす羽目にもなるんですが(『トルテカ-チチメカ史』より)、アイリーン・ニコルソンはその辺どう思っていたんでしょう?

 テスカトリポカが化けたトウガラシ売りの名前はトウエヨ

 『メキシコの神話伝説』(そしてその参考となった『Myths of Mexico and Peru』)にはそうありますが、これは個人名ではなく「ワステカ人」を表す語です。『フィレンツェ絵文書・第10書』には「我らの隣人」という意味だとありますが、語源の正確なところは不明です。サアグンは『フィレンツェ絵文書・第3書』スペイン語テキストに「un indio forastero, que se llama toueyo」と書いていたんですが、スペンスはこれを「an Indian of the name of Toueyo(Toveyo)」と英訳し、さらに松村はそれを「アメリカインディアンの(中略)トウエヨ(Toueyo――一説にはトヴェヨToveyo)と申す方」としたのでした。確かに、「un indio forastero, que se llama toueyo」は「トウエヨという名の余所者のインディアン」と訳せます。しかし、『フィレンツェ絵文書・第10書』に載っている諸民族の解説を読むと、ワステカ人(Cuexteca、単数形はCuextecatl。ちなみにこの名称は地名Cuextlanに由来)の別名はToueyomeで単数だとToueyoだということが判ります。なので、「un indio forastero, que se llama toueyo」はこの場合「a foreign Indian who was called Toueyo」「ワステカ人と呼ばれる余所者のインディオ」ぐらいの訳の方が適切ではないでしょうか。また、同書によれば、トウガラシ売りにはワステカ人がかなりいた模様。さらに、ワステカ人はマントはあってもふんどしは着けていなかったようで、これらの情報から推して、局部を露出したワステカ人のトウガラシ売りというのは別段特殊な存在ではなかったと思われます。
 それにしても、テスカトリポカが化けたトウガラシ売りはなぜ局部を露出したワステカ人だったのでしょうか?
 『フィレンツェ絵文書・第6書』には「ワステカ人もトラソルテテオ(トラソルテオトルの複数形)の女神達を特に崇拝していた。彼らは彼女達の前では苦行や懺悔は行わなかった。なぜなら彼らは快楽を悪とは見做していなかったからである」とあります。
 また、コルテスの部下であったあるコンキスタドールの手になる『ヌエバ・エスパーニャと大都市テミスティタンについてのいくつかの報告』には「(ワステカ人は)ペニスを崇拝しており、彼らの神殿や広場にはそれらの像が、男女が様々な形で快楽を交わす様を表わす像や異なる方向に足を持ち上げた人間の像と共に置かれていた。(中略)彼らは非常な男色者であり腰抜けで、――口からワインを飲むのにうんざりして――脚を伸ばして横たわり、ワインを肛門から管を介して体がいっぱいになるまで注ぎ込んだ」と書かれていたようです。
 それから、ドゥランの『ヌエバ・エスパーニャ誌』の女神トシについて書かれた章で、オチパニストリ(掃き清め)の月の祭りには「(女神の化身とされた女性が)市場へ連れて行かれる際には、ワステカ人に扮した男達と彼女の生前からの従者達に付き添われていた」  ところで、『メキシコの神話伝説』ではテスカトリポカは緑のトウガラシではなく緑の彩具を売っていたことになっていますが、これは『フィレンツェ絵文書・第3書』スペイン語テキストの「aji verde(緑のトウガラシ)」をスペンスが「green paint」と訳したものを参考に書いたからです。しかし、なぜスペンスがそのような訳をしたのかは判りません。
 そういえば、ブリントンの『American Hero-Myths』には「Transforming himself into the likeness of one of those Indians of the Maya race, called Toveyome(1人のトウェヨメと呼ばれるマヤ民族のインディアンに変身し)」「Toveyome is the plural of toveyo, which Molina, in his dictionary, translates "foreigner, stranger." Sahagun says that it was applied particularly to the Huastecs, a Maya tribe living in the province of Panuco.(トウェヨメとはトウェヨの複数形で、モリーナの辞書によれば、「外国人、余所者」と訳される。サアグンはそれは特にワステカ人、パヌコ地方に住むマヤ部族について用いられると言う)」と書かれていました。ブリントンはまた「aji verde」を「green peppers(緑のトウガラシ)」と訳してましたが、『メキシコの神話伝説』の参考文献には『American Hero-Myths』も挙げられているのに、松村はトウェヨ関連の箇所は見落としてたんでしょうか……?

 ケツァルコアトルはテスカトリポカが勧めた酒に酔い妹のケツァルペトラトルと近親相姦してしまった

 この辺りは別々の史料から取った話を1つに合成していたり、翻訳や解説の過程でオリジナルにない要素が入ってきていたりするので、分解しなおしてみましょう。
 まず、テスカトリポカがケツァルコアトルに酒を勧めたのは『フィレンツェ絵文書・第3書』ですが、こちらでは3人の妖術師ティトラカワン(テスカトリポカ)・ウィツィロポチトリ・トラカウェパンのうち、老人に化けたティトラカワンが病気のケツァルコアトルに薬と称して白いプルケを飲ませて酔わせますが、その後話題はティトラカワンがトウガラシ売りのワステカ人に化けてウェマクの娘を誘惑することに移り、ケツァルコアトルはしばらく出てきません。ケツァルペトラトルと何かしたということもありません。というかケツァルペトラトルは出てきません。
 ケツァルペトラトルが登場するのは『クアウティトラン年代記』です。こちらでは、3人の妖術師はテスカトリポカ・イウィメカトル・トルテカトルとなっています。まず、テスカトリポカはケツァルコアトルを訪れて持参した鏡を見せます。それからテスカトリポカはイウィメカトルと相談し、羽根細工師コヨトリナワルをケツァルコアトルの元に行かせます。鏡に映る自分の醜い姿に衝撃を受け、臣民に見られることを恐れていたケツァルコアトルは、コヨトリナワルが作った仮面や装束と化粧によって美しく装った自分を鏡で見て満足します。それから、イウィメカトルはトルテカトルと共にプルケを醸してケツァルコアトルに勧めます。酔ったケツァルコアトルは姉のケツァルペトラトルも呼んで一緒に酒を飲み、彼らは沐浴や苦行をしようとしないまま夜明けを迎えました。
 ……という訳で、「ケツァルコアトルはテスカトリポカが勧めた酒に酔い妹のケツァルペトラトルと近親相姦してしまった」のうち、「ケツァルコアトルはテスカトリポカが勧めた酒に酔い」の部分は、『フィレンツェ絵文書』と『クアウティトラン年代記』の記述が混ぜ合わされたものであることが判りました。
 では、「妹のケツァルペトラトル」はどうなのか。先に私は「姉のケツァルペトラトル」と書きましたが、それは『クアウティトラン年代記』のナワトル語テキストでは「nohueltiuh(私の姉)」となっていたからです。ナワトル語では姉と妹を区別しますが、スペイン語や英語などではその区別はあまり重視されません。しかし、日本語は姉と妹を区別する言語です。なので、「ナワトル語のhueltiuhtliをスペイン語のhermanaや英語のsisterと訳したものを日本語訳する際、元のナワトル語テキストを参照しなかったために姉か妹か判らず、なんとなくイメージで妹と訳してしまった」という経緯があって日本では「妹のケツァルペトラトル」という設定が定着してしまったことが推測されます。他の例としては、「ドゥランの『ヌエバ・エスパーニャ誌』でもシワコアトルやマリナルショチトルはウィツィロポチトリのhermanaとしか書かれていないので、姉か妹かははっきりしないが、日本では妹とされることが多い」というのもあります(なお、先住民系クロニスタ、チマルパイン・クアウトレワニツィンが著したナワトル語テキストによれば、ウィツィロポチトリはマリナルショチトルのことを「我が姉 nohueltiuh」と呼んでいます)。
 それでは、「近親相姦してしまった」というのはどこから出てきたのでしょうか。これは私の勝手な憶測ですが、「沐浴や苦行といった神官の義務を忘れてしまった……ということは、純潔の義務も放棄してしまったんじゃないか? 酔っ払っていい気分になった男と女が一緒にいて何も起こらないなんてことがあるか?」と想像をたくましくした結果なんじゃないかと……「何もしなかった」より「エロいことしてた」の方が話として盛り上がるし……。先に紹介した、ウェマクが女たちと同棲してしまったためにケツァルコアトルを辞めたエピソードなどからの類推もありそうですね。
 ところで、テスカトリポカ以外のケツァルコアトルを陥れる計画に関わった妖術師等についても少し説明します。
 『フィレンツェ絵文書』版の妖術師たちのうち、ウィツィロポチトリは言うまでもないメシーカ人の守護神ですが、トラカウェパンについてはあまり情報がなく詳しいことは判りません。彼の名は「木材の人」「人間の梁」といった意味で(「上に人の頭が乗った木の梁」の絵文字で書かれる)、アステカの貴族にもしばしば見られます。後にペドロと改名したモテクソマ2世の息子もまたこの名を持っていました。トラカウェパンはウィツィロポチトリのある面を表わすと考えられているようですが、テスカトリポカ・ウィツィロポチトリ・トラカウェパンの3人組はテスココ・テノチティトラン・トラコパンの三国同盟を象徴しているとする説もあるそうです。
 『クアウティトラン年代記』版の妖術師たちのうち、トルテカトルはプルケの神センツォントトチティンの一員ですが、イウィメカトルについてはあまり情報がなく詳しいことは判りません。それから、ケツァルコアトルに装束等を作ったコヨトリナワルは『フィレンツェ絵文書・第9書』によれば羽根細工師の守護神の筆頭で(同書には羽根細工師の神々は1.コヨトリナワル2.ティサワ3.マクイルオセロトル4.マクイルトチトリ5.シウトラティ(年長の方の女神)6.シロ(年少の方の女神)7.テポステカトルの7柱とある)、黄金の歯と牙のコヨーテの頭と皮を着け、黒曜石の刃を付けた棍棒と青いボーダーの竹の楯を持ち、ケツァルの羽を入れた壷を背負い貝とガラガラを足に着けユッカ繊維のサンダルを履くコヨーテ戦士の姿をしています。

 テスカトリポカは蜘蛛に化けてケツァルコアトルに酒を勧めた

 先の項目の続きのような話題ですが、『メキシコの神話伝説』収録の「蜘蛛の災い」には「あるときテズカトリポカは、自分の姿を蜘蛛に変えた。そして美しい糸を吐いて、その糸にすがりついて、空から大地に降りてきた。そしてクェツァルコアトルの館に這って行って、プルクェという酒を王に勧めた。王がその酒を飲んで見ると、何ともいえぬ程いい味がしたので、その後は毎日のようにこれを飲み続けていた。そうしているうちに、クェツァルコアトルの心が次第に荒んで来て、妃のクェツァルペトラトルのことなどすっかり忘れてしまって、淫らな女たちを愛するようになった。こうして、クェツァルコアトルの身に恐ろしい呪いがふりかかって来た」とあります。
 これはスペンスの『Myths of Mexico and Peru』に書かれていたことを基にしています。スペンスの本では「Tezcatlipoca, descending from the sky in the shape of a spider by way of a fine web, proffered him a draught of pulque, which so intoxicated him that the curse of lust descended upon him, and he forgot his chastity with Quetzalpetlatl.(蜘蛛の姿をとって美しい巣の道によって空から降りてきたテスカトリポカは、彼(ケツァルコアトル)に1杯のプルケを差し出した。それは彼が快楽の呪いにかかり、ケツァルペトラトルと共に純潔を忘れてしまうほどに彼を酔わせた)」となっていましたが、ケツァルペトラトルが何者かについては説明がなかったため、松村武雄氏は彼女はケツァルコアトルの妃であり、彼は純潔と妃とを共に忘れてしまったのであると解釈したようです。
 ところで、スペンスは『Myths of Mexico and Peru』の件の箇所をブリントンの『The Myths of the New World』の「Tezcatlipoca, otherwise called Yoalliehecatl, the wind or spirit of night, who had descended from heaven by a spider's web and presented his rival with a draught pretended to confer immortality(ヨワリエエカトル、夜の風または魂とも呼ばれるテスカトリポカが蜘蛛の巣によって空から降りてきて、彼のライバルに不死をもたらすと見せ掛けて勧めた1杯の酒)」および『American Hero-Myths』の「As the fumes of the liquor still further disordered his reason, he called his attendants and bade them hasten to his sister Quetzalpetlatl, who dwelt on the Mountain Nonoalco, and bring her, that she too might taste the divine liquor.(中略)Soon they were so drunken that all reason was forgotten ; they said no prayers, they went not to the bath, and they sank asleep on the floor.(その酒の匂いがなおも彼(ケツァルコアトル)の理性を失わせていたため、彼は従者たちを呼び、ノノアルコの山に住んでいる彼の姉妹ケツァルペトラトルもこの聖なる酒を味わうだろうから、彼女のところへ急いで行き彼女をつれて来るよう命じた。(中略)すぐに彼らはとても酔っ払ってしまい、まったく理性をなくしてしまった。彼らは祈りを捧げることもなく、沐浴することもなく、床の上で眠りに落ちてしまった)」といった記述を参考にして書いたようなのですが、なぜsisterを省いてしまったんでしょうか? 特に重要ではないとして省いたのか、それとも単なる書き忘れでしょうか?
 ブリントンの書いたものに話を戻すと、彼は『クアウティトラン年代記』の記録として紹介している『American Hero-Myths』の物語では蜘蛛の巣云々は書いていなかったのに(『クアウティトラン年代記』には書かれていないんだから当然ですが)、なぜ『The Myths of the New World』ではメンディエタの『インディアス教会史』から蜘蛛の巣を持ってきてくっつけてしまったんでしょうか? ブリントンは同書において、ケツァルコアトルは東方の光と風の主であり、テスカトリポカは夜の風ないし魂だとしています。『The Myths of the New World』のこの件についての記述を、スペンスが参照した部分の前後も含めてもう一度訳すと「彼(ケツァルコアトル)の地上での仕事がなされたとき、トラパランの支配者である太陽が彼の存在を求めているとして、彼もまた東方へ帰還した。だが、蜘蛛の巣によって空から降りてきて、不死をもたらすと見せ掛けていたが実際には押さえがたい望郷の念を起こさせる1杯の酒を彼のライバルに勧めた、ヨワリエエカトル、夜の風または魂とも呼ばれるテスカトリポカに彼が打ち負かされたことが真の動機であった。黄昏が迫り、あるいは雲(cloudsの訳でありspider蜘蛛の誤変換ではない)が暗い影のような網を山々に沿って広げる時には風と光は共に発ち、野原を活気付ける雨を野に降らせる」としていました。つまり、『インディアス教会史』でそれを用いてテスカトリポカが天から降りて来た蜘蛛の巣を元に広がる雲を連想し、『フィレンツェ絵文書・第3書』のテスカトリポカがケツァルコアトルにプルケを勧めた件と混ぜて作った話を根拠として、雨の神トラロックの使者でもあるケツァルコアトルが雨の先触れとなる風を吹かせることとケツァルコアトルの旅立ちとを結びつけたようです。根拠を自作するってまずくないか?と思いますが。
 なお、『インディアス教会史・第2書』の第5章「テスカトリポカがどのように空から降りてきてケツァルコアトルを死へと追いやったか」ではテスカトリポカは蜘蛛の巣でできたロープによって空から降りてきましたが、蜘蛛に化けていたとは書かれていません。ブリントンもテスカトリポカは蜘蛛の巣によって空から降りてきたとしか書いていませんが、スペンスはブリントンの記述からテスカトリポカが蜘蛛の姿をとっていたと想像したようです。『インディアス教会史』ではテスカトリポカは空から降りた後、ケツァルコアトルと球戯をして、それからジャガーに変身しケツァルコアトルを追い回しますが、酒を勧めたりはしていません。ブリントンが『インディアス教会史』のエピソードをそのまま紹介しなかったのは、ケツァルコアトルがテスカトリポカに追われる途中チョロラン(チョルーラ)に数年滞在したり、死んで火葬された後に凶兆たる彗星のような星になったりしているので、暗い雲が広がるときに恵みの雨を降らせる風と光だという解釈には合わなかったからでしょう。だから、太陽が呼んでいるからと言ってトラパランに向かった『フィレンツェ絵文書』のエピソードと混ぜたんだと思います。
 ブリントンは『The Myths of the New World』では『インディアス教会史』と『フィレンツェ絵文書』の記述を混ぜ自分なりの解釈を加えて、ケツァルコアトルがテスカトリポカに酒を勧められ東方へ旅立つ話を作りました。そしてもう一冊の著書『American Hero-Myths』では『クアウティトラン年代記』を元に(テスカトリポカ1人が仲間のイウィメカトルとトルテカトルや協力者コヨトリナワルの役目も兼ねるようアレンジしているけど)ケツァルコアトルとケツァルペトラトルが酔って理性を無くして祈りも沐浴もせずに床の上で眠ってしまった話を紹介し、これは太陽が大地に沈む様子を表わすのだろうと解説しました。彼はケツァルペトラトル(美しい絨毯)とは豊かな熱帯の風景の象徴とするのが妥当だろうと考えていました。
 ブリントンにとっては、ケツァルコアトルがテスカトリポカに酒を勧められる話は『The Myths of the New World』に載せたものでは暗い雲が広がり雨が降る様子を、『American Hero-Myths』に書いたものは大地に沈む太陽を表わす、それぞれ異なったものでした。しかし、スペンスはブリントンの意図を無視して両方を混ぜ、さらに蜘蛛の巣で天から降りて来たテスカトリポカを実際に蜘蛛に変身させてしまいました。それにしても、『メキシコの神話伝説』の参考文献には『American Hero-Myths』も挙げられているのに、松村はケツァルペトラトル関連の箇所は見落としてたんでしょうか……?
 ところで、蜘蛛の巣で降りてくるといえば『バチカンA絵文書』の冥界の神々の解説の中に「ツォンテモク、頭を先にして天から降りる者。この名の意味するところは悪魔と同じ、すなわちdeorsum cadens、下に落ちるということである。このために彼らは頭を下にして巣から降りる蜘蛛のような霊魂をこう呼んだ」とあります。悪魔云々はキリスト教的解釈ですが、蜘蛛の巣で降りるというのは頭を下にして降りる姿を表しているということが分かります。ツォンテモクだけではなく、メソアメリカの神々は天から降臨する際は頭を下にして降りてくるものです。『バチカンA絵文書』には、第2の時代の終わりに降りてくるケツァルコアトルや第4の時代の出来事であるトゥーラの滅亡に際して降りてくるショチケツァルの姿などが描かれていますが、いずれも頭を下にしています(トゥーラ滅亡は現在の世界ではなく前の時代の出来事だとする史料がいくつかあります。また、余談ですが『ヴィジュアル版世界の神話百科アメリカ編』に「(ショチケツァルは)伝承によれば、ケツァルコアトルによる平和的な支配の時代と第2の太陽の時代に、美しさと花の贈り物と青々とした緑とで大地を飾りたてたという」とあるのは、コティー・バーランドによる改変をそうと気付かず孫引きしたD.M.ジョーンズの調査不足による勘違いでしょう)。テスカトリポカだけが頭を下にして降りてくる訳でも、まして蜘蛛に化けていた訳でもありません。


 そういえば、ネット上ではよく「呪いのかけられた酒プルケ」との記述を目にしますが、これは前述した「蜘蛛の災い」の「クェツァルコアトルの身に恐ろしい呪いがふりかかって来た」という文から、プルケが呪いのアイテムだと解釈されたのでしょう。しかし、この表現はケツァルコアトルが美酒に溺れ快楽から抜け出せなくなった結果として都を立ち退かねばならなくなったことの比喩に過ぎません。参考元のスペンスの本では、むしろケツァルコアトルが酒に酔ったために快楽に耽り純潔を忘れるようになったことを呪いとしていますが、いずれにせよ飲酒による不行跡ないしそれが招いた不幸を喩えたものです。『フィレンツェ絵文書』や『クアウティトラン年代記』で呪術師たちがケツァルコアトルに酒を勧める件では、プルケに呪いを込めるような描写はありませんでした。恐らくケツァルコアトルが飲んだプルケ自体は普通の酒だと思います。

 

「コラム」目次へ戻る