山彦の由来

 昔、メキシコの地に大洪水があった。
 流れ漲る水は、奔馬のように台地を荒れ回った。人々は襲ってくる大波にさらわれて、あちらこちらに逃げまどったが、とうとう逃げきれないで、沢山溺れ死んだ。
 やっと命を助かった人たちは、大きな岩によじ登ったり、高い木の梢にしがみついたり、山の上に駆け登ったりして、恐ろしい水の攻手を凌いでいた。
 洪水は岩や木や山にぶつかって、耳を聾するばかり激しい響きを立てた。人々はお互いに真っ青になった顔を見合わせて、
「何という激しい音でしょう」
「まるで猛獣が吼えるようですね」
などと話し合っていた。
 しかし永いことたつと、洪水が次第に引き始めた。それからまた永いことたつと、すっかり大地の面が現れて来た。そして夜昼鳴り響いていた激しい音がぴたりと止んでしまった。人々はやっと安心して、岩から木から山から降りて来た。
 しかし、それからというものは、不思議なことが起こるようになった。人々が谷間に行って、何気なく大きな声を立てると、あたりの山々からその声がそっくりそのまま返って来るのであった。人々は非常に驚き怪しんで、
「どうしたんだろう。あの声は誰が出すんだろう」
「山の中に怪物が潜んでいて、私達の口真似をするのではなかろうか」
「きっとそうかもしれないよ」
などと話し合った。そして元気のいい若者たちが声をたよりに山の中を隈なく探し回ったが、怪物などさらに見つからなかった。人々は不思議で堪らなくなって、寄るとさわるとその話ばかりしていた。すると一人の年とった男が、にやにや笑って、
「あれは怪物などのせいではないよ」
といった。
「では、何ですかね」
と人々が口をそろえてこう尋ねた。老人はしかつめらしい顔をして、
「お前さんたちは、あの大洪水のときに、水がいろんな物にぶつかって、すさまじい響きを立てたことを忘れたかね」
といった。
「忘れるものですか。いまでもありありと耳に残っていますよ」
と人々がいった。
「あの恐ろしい響きが、山々にまだ残っているのだよ。お前さんたちが谷間で大きな声を立てると、その残っている響きがつい釣り込まれて出て来るのだよ」
と老人がいった。
 こうしてメキシコでは、山彦は昔の大洪水の名残であると信じられている。
 

  『メキシコの神話伝説』より
 

 

 テペヨロトル
 

 「1の鹿」悪い日。麻痺と悪い体液を引き起こす。
 「2の兎」悪い日。大酒飲みの日。
 供物としての緑の貴石。
 

 この名は洪水の後に残された大地の有様への崇敬の意を表しているといわれる。
 これらの13日間[「1の鹿」のトレセーナ。トレセーナとは260日暦における週に相当するもので、13日を1単位とする]の生贄は良くないものであり、直訳すると汚物の生贄である。
 大地
 

 このテペヨロトルはこれらの13日間の主である。先住民たちは8の虎[ジャガー]の日に祭りを祝い、この手が示すところで最後の4日間には断食をした。テペヨロトルは動物の主を意味する。4日間の断食は現在我々が歩いている大地に残された者のショチケツァルに敬意を表するものである。
 このテペヨロトルは谷で1つの丘からもう1つまで反響するときの声の轟きと同じである。
 

  『Codex Telleriano-Remensis (テレリアーノ-レメンシス絵文書)』より

 

 『テレリアーノ-レメンシス絵文書』のトナラマトルのセクション内のテペヨロトルの解説が「山彦の由来」のお話の元ネタなので、訳してみました。実際の記述は大体こんな感じだったのであり、若者が怪物を探しに山の中に入ったり、老人が出てきて説明したりというのは松村が想像で書いたお話です。
 なお、松村は『テレリアーノ-レメンシス絵文書』そのものではなくルイス・スペンスの『メキシコとペルーの神話』内に書かれたものを読んだのですが、スペンスはこの場合はほぼ正確に記していました。ちなみに、スペンスは『テレリアーノ-レメンシス絵文書』でTepeyollotlテペヨロトルの名がTepeolotlecテペオロトレックと呼ばれていることについては本来の名が明らかに歪められたものとしています。また、この絵文書を英語で全訳したエロイーズ・キニョネス・ケベールもTepeolotlecではなくTepeyollotlの綴りを用いているので、私もテペヨロトルと書くことにしました。ついでに言うと、ケベールはテペヨロトル(テペオロトレック)が動物の主であるという説明は間違った解釈であり、多分この神がジャガーの姿をしていることから来たものであろうとしています。なお、「テペヨロトルは「山の心臓」を意味し」という『メキシコの神話伝説』での説明は正しいものです。
 不明瞭であまり議論されていない神テペヨロトルに関する文字史料は『テレリアーノ-レメンシス絵文書』と『バチカンA絵文書』、それにいくらかの注釈者による憶測のあるいは誤った記述しかない、とケベールは述べています。
 ケベールのコメントによれば、テペヨロトルは変幻自在の神テスカトリポカのジャガーの面を表わしています。テペヨロトルはその青ではなく緑で彩られた装身具が、水よりも大地に関連した豊穣の神の役割をほのめかしているということです。そして虎(ジャガーのこと)はその狂暴性と洪水後に残った丘の中の大きな音のために大地と関連付けられます。
 テペヨロトルは「1の鹿」のトレセーナの守護神としては、片手に捕虜の髪、もう一方の手には排泄物をつかんだトピルツィン・ケツァルコアトル(あるいはその化身を演じる神官)と共に描かれています。『ボルジア絵文書』や『バチカンB絵文書』ではケツァルコアトルではなくトラソルテオトルが同様のポーズで描かれていますが、ケツァルコアトルもトラソルテオトルも人間の誕生に関わるので、いずれにしても何か豊穣に関する儀式と関連しているようです。
 

 

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