太陽の出現

 昔は世界に太陽がなかった。世界中は真っ暗であった。人間は闇の中で寒さに震えていた。
 人間たちは困りきって、メツトリ(月)に訴えた。
「一人の人間が犠牲にならなくては、太陽は現れないよ」
とメツトリがいった。人間たちは闇と寒気も嫌であったが、命を失くするのはなおさら嫌であった。だからメツトリからこういわれると、お互いに顔を見合わせて黙りこくっていた。
 メツトリはナナフアトルという者を引っ捕えて、
「そなたが犠牲になるのじゃ」
といった。ナナフアトルは仕方がないのでその言葉に従うことにした。メツトリは、屍を焼く薪を山のように積み上げて、それに火をつけた。火が炎々と燃え上がると、メツトリはナナフアトルをつかんでその中に投げ込んだ。ナナフアトルの体は見る間に焼け焦げてしまった。じっとそれを見ていたメツトリは、
「ナナフアトル、そなたばかりを死なせはせぬよ。わしも一緒に死ぬのじゃ」というなり、たちまち身を跳らせて炎の中に飛び込んだ。
 人々は二人の死を悲しみながら、一心に東の空を眺めていた。暫くすると、遥か彼方の地平線のあたりがほの紅くなった。と思うと、円くて真っ赤なものがぬっと現れて、あたり一面に眩しいような光を投げかけた。
「太陽が現れた、太陽が……」
と、人々はこう叫んで、嬉しさに踊り回った。
 

  『メキシコの神話伝説』より
 

 

 この太陽は4の動きという名である。今日生きる我々の太陽だが、テオティワカンで太陽が自ら火の中に、聖なる炉に飛び込んだために、ここにあるのはただその意義だけである。
 それはトランのケツァルコアトル、トピルツィンの太陽と同じものだ。そして太陽になる前は彼方のタモアンチャンに住まう、名をナナワトルという者であった。
 鷲・ジャガー・隼・狼が彼についてきた。6の風・6の花、いずれもこの太陽の名である。
 さて、ここに神の炉と呼ばれるものがある。4年間燃えていた。
 そうして、トナカテクトリとシウテクトリがナナワトルを呼び出した。彼らはナナワトルに言った「お前が天地を保たねばならない者である」。
 それから、ナナワトルはとても悲しんだ。彼は言った。「彼らは何をおっしゃるのだろう? 神々がいらっしゃるのに、そして私は役立たずの病人なのに!」
 彼らはまたナウィテクパトル(4の燧石)、月を呼び出した。彼を呼び出したのはトラロカンテクトリとナパテクトリであった。
 そうして、ナナワトルは断食した。彼は自分の棘と針を取った。それから彼は針を月に与え、そして彼らは苦行を行った。
 それからナナワトルが最初に沐浴しその後で月が沐浴した。
 彼の針は羽根で、彼の棘は翡翠である。彼は翡翠を香として用いた。
 そして4日が過ぎ、神々はナナワトルを羽根で飾り、白く塗った。それからナナワトルは火の中に飛び込むため出発し、そしてその間にナウィテクパトルはナナワトルのために女のように歌い踊った。
 そしてナナワトルは火の中に飛び込んだ。しかし月は灰の中に飛び込んだだけであった。
 それでナナワトルは去っていった。そして彼は鷲をつかみ持っていくことができた。
 しかし彼はジャガーを持っていくことはできなかった。それはただ火のそばに立っていて、火を飛び越えてしまった。それでジャガーは斑点模様になったのである。そのとき隼は煙色になった。そのとき狼は歌っていた。これら3匹はナナワトルと共に行くことができなかった。
 さて、ナナワトルが空に上ったとき、トナカテクトリとトナカシワトルが彼を沐浴させた。それから彼をフラミンゴの赤い羽根の椅子に座らせ、彼の頭を赤い縁取りで飾った。
 それから彼は4日間空に留まり、それから4の動きの日に現れた。
 しかし彼は4日間動かず、ただその場に留まっていた。
 神々が言った「なぜ彼は動かないのだ?」。それから黒曜石の隼を送り、彼への質問を伝えさせた。黒曜石の隼はナナワトルに伝えた「神々は「なぜ動かないのか彼に尋ねよ」とおっしゃいました」。
 すると太陽は言った「なぜだって? なぜなら私は彼らの血、彼らの赤いもの、彼らの貴重な物質を求めているからだ」。
 そこで神々は協議を開いた。そしてトラウィスカルパンテクトリが怒った。彼は言う「やれやれ、なぜこうなるんだ? 私があいつを射抜いてやる! あいつはじっとしていてはいけない!」。
 そしてトラウィスカルパンテクトリは太陽を射たが、失敗してしまった。
 一方、太陽がトラウィスカルパンテクトリを射ると、彼の矢は炎の槍のようであったので、彼はトラウィスカルパンテクトリを射るのに成功した。そして9つの層がトラウィスカルパンテクトリの顔を覆った。
 このトラウィスカルパンテクトリは霜である。
 それからすべての神々が集まった。ティトラカワン・ウィツィロポチトリ・そして女神達ショチケツァル・ヤパリイクエ・ノチパリイクエである。そしてテオティワカンで彼らは皆生贄となって死んだ。そうして太陽は空に昇っていったのである。
 それからただ灰の中に落ちただけの月が昇った。そして彼が空の際に達すると、パパスタックが来て彼の顔を兎の壷で打ち砕いた。
 そして彼は四辻でツィツィミメ・コレレティンに会い、彼女たちは彼に言った「こっちにおいで」。彼女たちは彼を長い間引き留め、彼をぼろ布ですっかり着せ付けさせてしまった。
 そしてそのような訳でそのとき現れたのが4の動きの太陽なのであった。そしてそのとき、彼は日暮れもまた設けた。
 

  『Leyenda de los soles (太陽の伝説)』より
 

 

 これは『太陽の伝説』版の第5の太陽創造譚です。
 『フィレンツェ絵文書』版をベースに、新しく誕生したものの動こうとしない太陽が神々の血を要求し、怒ったトラウィスカルパンテクトリが太陽を射抜こうとするも返り討ちにあうというこちらのエピソードの一部を混ぜ込んだものが、世間に広まっている第5の太陽創造譚なのです。
 そういう事情を知れば、ナナワツィンが太陽になる前と後とで性格が変わりすぎだと言われることも無理はないと思えます。そもそも別の話だったんですから。『太陽の伝説』版のナナワツィン(ナナワトル)は指名されてなんで私が?と悲しんでたんだから、そりゃ実際に太陽になれば血ぐらい要求したくなるのもそうおかしくはない気がします。『フィレンツェ絵文書』版でも太陽を動かすのに神々の犠牲が必要というのは同じですが、そちらでは太陽は血を求めていると自分からは言ってません。動かない太陽と月を見た神々が、自分達が犠牲になることで太陽を動かそうと決めたものの、ショロトルは……と、詳しくはまたの機会に。
 次期太陽に指名されて悲しんだというのもですが、ナナワトルが羽根の針と翡翠の棘を用意していて4の燧石(テクシステカトル)にも分けてやったとか、羽根飾りをつけてもらえたとか、火中に身を投じる前の準備段階の描写も『フィレンツェ絵文書』のとは異なります。『フィレンツェ絵文書』版の方が現代人にアピールしやすい設定ですよね、貧しく謙虚な者が豊かで傲慢な者よりも勇気ある行動を見せるという方が。それにしても、別に傲慢だったという訳でもないのに散々な仕打ちを受けてないですか、ナウィテクパトル……。ちなみに、彼の顔を兎の壷で打ち砕いた神パパスタックとはセンツォントトチティンつまり400羽の兎と呼ばれる神々の一員で、ツィツィミメ・コレレティンはいずれも魔物ですが、『フィレンツェ絵文書』でやはりこれらの魔物が共に出てくる箇所によれば、出産の際に死んだ女性がなったもののようです。
 ところで、『太陽の伝説』におけるウィツィロポチトリの出番はこれだけです。トピルツィン=ケツァルコアトルの太陽を動かすための生贄にされるだけのチョイ役です。登場即死亡。「あんなのが太陽なんてあり得ない!」と言わんばかりの扱いです。多分、テノチティトランによる周辺諸都市へのウィツィロポチトリ崇拝の押し付けが反感を買っていたということでしょうね。そして、ティトラカワン(テスカトリポカ)も同時に生贄にされています。そのため、後の「セ・アカトルの事跡」の章では、トナティウとイスタクチャルチウトリクエから生まれたミシュコアの1人ミシュコアトルの息子であるセ・アカトル(・トピルツィン・ケツァルコアトル)は、父を殺した伯父達を討った後、各地を征服し、そしてトラパランにおいて病死するんですが、他の史料の類話とは異なりテスカトリポカと対立することはありません。テスカトリポカ(ティトラカワン)はすでに死んでいるので登場しようがないのです……「偉大なセ・アカトルがテスカトリポカの計略に掛かるなんてあり得ない!」というアレンジでしょうか?
 そして、どうしてこの『太陽の伝説』版第5の太陽創造譚が『メキシコの神話伝説』の「太陽の出現」になったのか……それにはとてもややこしくとても阿呆らしい過程があります。
 ダニエル・ブリントンは『チマルポポカ絵文書』に基づき『新世界の神話』に「太陽が存在しないとき、すべての人類は暗闇の中で細々と暮らしていた。人身供犠のみが太陽の到着を早めることができた。そこでメツトリ、月はナナワトル、ハンセン病患者を導き、そして火葬用の薪を積み上げ、犠牲者はその真ん中に自ら身を投げた。すぐにメツトリは彼に倣い、そして彼女がまばゆい炎の中に消えると太陽が地平線の上に昇ってきた」と書きました。あんまり基づいていない気がしますが、本人がそう言ってるんだから仕方ありません。その疑問は後回しにして話を進めます。ブリントンの『新世界の神話』を参考文献のひとつとしてルイス・スペンスは『メキシコとペルーの神話』を書いたのですが、その際「メツトリ(月)はナナワトルを生贄として導き、そして彼は火葬用の積み薪に投げ込まれ、その炎の中で彼は焼き尽くされた。メツトリもまた大きく燃え盛る炎の上に自ら身を投げ、そして彼女の死により太陽は地平線の上に昇った」と書いたのです。そして、松村武雄はスペンスの記述をさらに脚色し、「太陽の出現」の話を創作したのです。……ルイス・スペンス、あんたなんで「the victim threw himself」を「he was cast」に書き換えた訳? 確かに『新世界の神話』の時点ですでにおかしかったけど、そこからもっと変にすることないだろ! アレンジとかいらんから! っていうか意味変わってるし! ……そして、古代中南米に関する予備知識をほとんど持たなかったであろう松村がその、もともとおかしかったものをさらに変にしたものをさらに想像で膨らませたものを自らの著書に載せたんですよ。だから『メキシコの神話伝説』所収の「太陽の出現」に類似した話は他の資料には出てこないんです。こんなに段階を経てぶち壊され再構成された話が他にあってたまるか。
 そういえば、「太陽の出現」に「人間たちは困りきって、メツトリ(月のこと)に訴えた」云々とあって、まるで太陽が現れる以前から月は存在していたかのようですが、これは大元である『太陽の伝説』での記述が紛らわしかったせいです。灰に飛び込んで生まれ変わる前から4の燧石のことを月と呼んでいるんですから。確かに、『太陽の伝説』だけではそう読めますが、『フィレンツェ絵文書』や『絵によるメキシコ人の歴史』での記述を合わせて考えると、月もまた炉に身投げすることで生まれたものと言えるでしょう。とまれ、『太陽の伝説』を読んだブリントンが自分の本で、ナナワトルが太陽に変じる前から月は存在していたかのように書き、それを読んだスペンスが少し語句を変えつつもやはり月は太陽以前から存在していたように書き、それを読んだ松村も疑うことなく同様の設定で物語を作ったのです。
 『新世界の神話』の「メツトリ、月はナナワトル、ハンセン病患者を導き、そして火葬用の薪を積み上げ、犠牲者はその真ん中に自ら身を投げた。すぐにメツトリは彼に倣い、そして彼女がまばゆい炎の中に消えると太陽が地平線の上に昇ってきた」とはきっと『太陽の伝説』の「ナナワトルは火の中に飛び込むため出発し、そしてその間に4の燧石はナナワトルのために女のように歌い踊った。そしてナナワトルは火の中に飛び込んだ。しかし月は灰の中に飛び込んだだけであった」という辺りから来てるんだと思うんですが、そうだとしたらずいぶん変わっています。しかしこのブリントンは他でもいろいろ改変しているので(ケツァルコアトルとトヒールが同一視されるからといって、ケツァルコアトルの業績にトヒールの行為も加えるとか、しかもそこでトヒールが生贄を要求したことには触れないとか。ケツァルコアトルが飲酒して堕落してしまう話に、テスカトリポカが蜘蛛の巣でできたロープで天から降りてくる登場シーンを別の話から持ってきてくっつけるとか)、ここでも手を加えたのかもしれないとつい疑ってしまいます。
 っていうか、「彼女」って何なんですか? 少なくとも第5の太陽創造譚の月は男性じゃなかったんですか? 「女のように」ということは本当は女じゃないんじゃないですか? ……といった疑問についても見ていきましょう。そして、ついでですから、『メキシコの神話伝説』の「メツトリ(Metztli)はメキシコの月の女神である。別名をヨフアルチシトル(Yohualticitl)という。ヨフアルチシトルという言葉は、「夜の貴女」を意味し」という記述についてもここで検証してしまいましょう。
 まず、アステカ(古代メキシコ)では月の神は男女いずれの性でも表わされたということがあります。例えば、『絵によるメキシコ人の歴史』では月はトラロカンテクトリ(トラロック)とチャルチウトリクエとの間の息子ですが、『ボルジア絵文書』には老婆のテクシステカトルが登場するといった具合です。
 しかし、『新世界の神話』を著したブリントンは月の神はすべて女神とみなしました。そして、アントニオ・デ・レオン・イ・ガマの『Descripcion histórica y cronológica de las dos piedras』にヨワルティシトルが「la diosa de las cunas(揺りかごの女神)」と書かれていたことから、ヨワルティシトルを子供の守護神として月の女神とみなしたようです。テクシステカトルは子を産むことを司る者だということと併せてそう考えたのでしょう(テクシステカトルとは「巻貝の主」を意味する名で、貝殻の中から生き物が現れることから巻貝は子を産むことを象徴するものとされた)。しかしヨワルティシトルを「the Lady of Night」と訳したのは……ひょっとして、レオン=イ=ガマの本で「señor de la noche(夜の主)」ヨワルテクトリと共に名を挙げられていたから、セニョールに対応するのはセニョーラだろうとか考えて、それで……? なお、ヨワルティシトルとは実際には「夜の医者」「夜の産婆」といった意味の名で、月の女神とする資料は特にないようです。『フィレンツェ絵文書』によればまたの名を「蒸し風呂の祖母」という意味のテマスカルテシといいます(テテオ・インナンなど幾柱かの他の女神も同じ名を持つ)。
 とまれ、『絵によるメキシコ人の歴史』のトラロカンテクトリとチャルチウトリクエの息子という設定、『太陽の伝説』の「女のように」という記述から、少なくとも第5の太陽創造譚に登場する月は男性とみなすのが適切でしょう。
 

 

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