ウィツィロポチトリが生まれたってのにケツァルコアトル対テスカトリポカの話ばかりしてる場合か

 コティー・バーランド『メキシコの神々』にはこうあります。「アステカ人自身の独自の神話はスペインによる征服時に宣教師達によって記録されたが、(征服前の)聖なる書物に留められた神々のリストは、これらの記録された神話よりも色々な意味でより古く普遍的な特徴があり興味深い。月の起源についての有名なアステカの伝説はその良い例である。大いなる母コアトリクエが最後に妊娠したとき、先に生まれていた数多の彼女の子供達、若い星々はぞっとした。彼らは母が何か恐ろしい罪を犯したと思い、彼ら自身を不名誉から守るために頃合を見て母を殺そうと企んだ。彼らは姉のコヨルシャウキ(黄金の鈴)を話し合いに招いたが、彼女は彼らの決断は良くないことだと思い、何とかして母に警告しようと考えた。母の住む大きな洞窟に星々が向かって進んできたとき、コヨルシャウキは彼らの前に飛び出して警告した。しかしちょうどそのとき、すでに完全武装した幼い子供が生まれた。それは恐るべきウィツィロポチトリであった。軍勢の進む音を聞き、彼は武器を携えて飛び出し、投げ矢を放ってまずコヨルシャウキを、そして次々に星々と交戦しては彼らを屠っていった。ついに全ての星々を殺した彼は、彼の姉の心根の善良さと彼への信頼を語る母の元へと戻った。もはや彼にできるのは彼女の首を取っておくことだけで、彼女の名コヨルシャウキの由来である頬の上の黄金の鈴が天を飾るのを人々がこれから先も見られるように、彼はそれを切り落として天に投げ上げ月とした」

 バーランドはこの話の出典を詳らかにしていませんが、実際のところは『フィレンツェ絵文書・第3書』収録のウィツィロポチトリ誕生譚を彼がアレンジしたものです。しかし、バーランドは何故サアグンが記録した神話をそのまま紹介しなかったのでしょうか? 先に述べたように、私はバーランドは綺麗な名前の女神は中身も綺麗だと考えたからではないかと思いました。それは今でも変わりませんが、さらに加えて別の理由もあったのかもしれないとも思うようになりました。

 ここに訳出したように、バーランドはウィツィロポチトリを恐るべきものと捉えています。そして善良なコヨルシャウキは彼の早とちりの犠牲となります。しかし、アレンジ元である『フィレンツェ絵文書』におけるコヨルシャウキは率先して母の殺害を兄弟達に持ちかけます。まるで反対ですが、どうしてこうなったのでしょうか。

 『メキシコの神々』巻頭の神々紹介の項で、ウィツィロポチトリは「テスカトリポカの南方と関連付けられた相」、コヨルシャウキは「テスカトリポカの姉である月の淑女」だとされています。ここでは完全にウィツィロポチトリ=テスカトリポカなのです。

 ではバーランドはテスカトリポカのことはどのように見ていたのかというと、「この世の君主(the Prince of this World、キリスト教のサタンのことでもあるこの称号を選んだことは意味深)」「この恐るべき神は大地の創造に責を負う創造主(デミウルゴス、キリスト教グノーシス派においては悪の創始者ともされる)にして当時の二元論的な宗教における慈悲深いケツァルコアトルとは正反対の存在だと考えられた。彼は人間の人格の影の側を分かりやすい姿で表していた。彼の名テスカトリポカは、彼を呪術師、魔術師の神として表していた。それは煙る鏡を意味し、彼の象徴も魔術師が未来を幻視するその黒曜石の鏡に由来していた。彼のもうひとつの肩書きティトラカワンは「肩のところにいる者」、あらゆる人間の肩のそばに立ち、あらゆる行動を彼自身の邪悪で残酷な傾向に向かわせるよう心中の思考に囁きかける神であることを意味していた」などと書いています。

 ティトラカワンとは「tītlācahuān < t-ī-tlācah-huān」で「我ら-彼の-奴隷-(所有形複数名詞接尾辞)」、「我らは彼の奴隷」なのでバーランドの語釈はまるで正しくありません。アコルナワカトルなら「肩のところにいる者」と解釈できそうですが(「acolli(肩)+nahuac(~のそばに)」?)、これはテスカトリポカではなくミクトランテクトリの別名です。何故こんな、少しでもナワトル語をかじっていれば分かるような誤訳をあえて入れたのか。それは、ユングの研究の信奉者を自任するバーランドが、ユング心理学に則り「ケツァルコアトル=自己/テスカトリポカ=影」として、コルテスとして帰還したケツァルコアトルによって影が克服されるという筋書きを立て、神話の諸要素をそれに当てはまるようにしたからだと思います。当てはまらなければ当てはまるように改変したのが、たとえばコヨルシャウキは悪意がなかったのに誤解で殺されたという話だったり、ウィツィロポチトリはテスカトリポカの一面に過ぎないという見方だったり、ティトラカワンとアコルナワカトルの恐らく意図的な混同だったりするのでしょう。

 しかし、ウィツィロポチトリがテスカトリポカだと明言している史料は確認されていません。しばしば「オメテオトルの4柱の息子たちは赤のテスカトリポカことシペ・トテク、黒のテスカトリポカ、白のテスカトリポカことケツァルコアトル、青のテスカトリポカことウィツィロポチトリ」と言われますが、これはアルフォンソ・カソの仮説が元になって普及した設定であって(カソはケツァルコアトルと白のテスカトリポカは別の存在だとしていましたが、他の3人に引っ張られてケツァルコアトル=白のテスカトリポカだとする説が広まってしまいました)、カソ自身も出典は「ある1つのバージョン」と言うのみで、具体的な史料のタイトルは挙げていません。4兄弟の神話が載っているのは『絵によるメキシコ人の歴史』ですが、4人のうちテスカトリポカは赤(カマシュトリ/ミシュコアトル)と黒のみで、ケツァルコアトルとウィツィロポチトリはテスカトリポカだとはされていません。詳しくはこちらも参照してください。

 そしてコヨルシャウキですが、彼女は善良でコアトリクエを助けようとしていたとする解釈は妥当なのかどうか。先に述べたように、『フィレンツェ絵文書』ではコヨルシャウキは兄弟達の先頭に立って母を殺そうとします。また、『チマルパイン文書(クロニカ・メシカヨトル)』収録の別の伝承では、ウィツィロポチトリの母コヨルシャウキ(コヨルシャウシワトル)とその兄弟は予言の地を目指す旅を続けるよう命ずるウィツィロポチトリに反対し、彼の怒りに触れ球戯場で殺され心臓を食われます。コヨルシャウキは『フィレンツェ絵文書』では姉ですが、実質的にはむしろウィツィロポチトリの母のもうひとつの面を表しているのではないでしょうか。ウィツィロポチトリは、彼を産む母コアトリクエを守り、彼を殺そうとする母コヨルシャウキを倒すのです。

 ところで、『フィレンツェ絵文書』のコヨルシャウキはウィツィロポチトリを殺す気だったという話に、バーランド作のコヨルシャウキの首を天に投げると月になったというエピソードを継ぎ足したものを時々見かけますが、それではどちらの文献の意図も踏まえていないことになります。『フィレンツェ絵文書』ではコヨルシャウキは月だと明言していないし、バーランドが例のエピソードを創作したのはウィツィロポチトリ(=テスカトリポカ)は完全な正義ではなく落ち度があったことにしたかったからでもあるのだろうから。複数の文献のいいとこ取りをすればより正しくなるとは限りません。安易に継ぎ接ぎする前に、それぞれの資料における各要素の意味を考える必要があります。

 バーランド以外にも、ウィツィロポチトリ誕生譚をケツァルコアトルとテスカトリポカの対立に関係がある話として解釈している人がいます。『マヤ・アステカの神話』著者アイリーン・ニコルソンがそうです。

 「ケツァルコアトルの後期アステカ版表現であるウィツィロポチトリ」と考える彼女は、コアトリクエが羽根によって妊娠した話をこう紹介しています。「四百人は、誰が彼らの母を妊娠させたのかと、騒ぎ立てる。彼が誰であろうと殺してしまえと、彼らは要求する。と、子供は胎内から跳び出し、自分はウィツィロポチトリだと名乗る。神話によれば、彼は、テスカトリポカの四百人の息子たちをつぎつぎに殺す。(中略)数は、ケツァルコアトル=ウィツィロポチトリの物語によって統一される、天国の多様性を指しているようである」  この話の元となったのは『絵によるメキシコ人の歴史』という史料に記されたウィツィロポチトリ誕生譚です。ここではコヨルシャウキは出てこず、コアトリクエを殺そうとするのはテスカトリポカの400人の息子達です。アイリーン・ニコルソンはこの神話を、ウィツィロポチトリ=ケツァルコアトルとテスカトリポカの対立を表す話の一つとして提示しています。  しかし、『絵による』本来の神話には彼女があえて触れなかったことが書かれています。コアトリクエもまた、テスカトリポカの5人の娘のうちの1人なのです。

 『絵による』版ウィツィロポチトリ誕生譚は以下の通りです。「彼ら(メシカ人)はトゥーラの向かいのコアテペックという名の山にやって来て9年間留まった。マセワル(平民)達は、テスカトリポカに作られ、そして太陽が創造された日に死んだ5人の女達のマンタを大いに崇拝して携えていた。前述の5人の女達はこれらのマンタによって甦り、この山中を歩き回って苦行し、舌や耳から血を流した。苦行を行って4年が経ち、コアトリクエという名の1人の乙女が少量の白い羽根を取って胸のところに入れ、それによって彼女は男を知ることなくウィツィロポチトリを新たに生んだ。彼は万能の神であり望むことは何でも出来たため、再び生まれるためにそうしたのであった。そしてやはりテスカトリポカに作られ太陽が創造される前に死んだ後甦った400人の男達は、コアトリクエが妊娠しているのを見て、彼女を焼き殺すため探したが、完全武装のウィツィロポチトリが彼女から生まれて400人の男達を皆殺しにした」

 話の流れからいって、コアトリクエはテスカトリポカに作られた5人の女のうちの1人でしょう。そして、『絵による』の別の箇所にもテスカトリポカに作られた女の子孫が登場します。トゥーラの領主となったセ・アカトルは、神から人間となった赤のテスカトリポカことカマシュトリと、黒のテスカトリポカ(単にテスカトリポカといえばこちら)が作った5人の女のうちの1人の子孫である女との間の子です。

 これが『絵による』独特で面白いところなのですが、大抵はトゥーラの領主セ・アカトルはトピルツィン・ケツァルコアトルともされるのに、この史料ではセ・アカトルはテスカトリポカの子孫でケツァルコアトル要素はありません。『絵による』にもケツァルコアトルは登場しますが、トナカテクトリとトナカシワトルの原初神夫婦の4人の息子の1人でウィツィロポチトリと共に神々や大地を創造したり、テスカトリポカと共に天を支えたり、1人で作った息子を第5の太陽としたり、その役割は世界の創造や維持に限られており、トゥーラの支配者といった人間の指導者としては活躍しません。ウィツィロポチトリはやはり原初神夫婦の息子として生まれ世界の創造に関わった後、生まれ変わってメシカ人を導く者となりますが、何故ケツァルコアトルはそうならなかったのでしょうか? それは、『絵による』に記録された神話が中央メキシコの覇者となったメシカ人を正当化する意図で編まれたもので、彼らの守護神ウィツィロポチトリは創造神にして民族の守護神でもあるすごい神様であると主張するため、彼に並ぶ者はいてはならないので創造神ケツァルコアトルとトゥーラの領主セ・アカトルは分けられたのではないかと思います。

 こうして見ると、『絵による』のウィツィロポチトリをアステカ版ケツァルコアトルだとするのは実態に即していないことになります。ウィツィロポチトリにケツァルコアトルと似た要素があることは確かですが、それはメシカ人が新興勢力である自分達の神に、より古くから信仰されてきた神の要素を取り入れることで権威付けを行ったからであって、ケツァルコアトルをウィツィロポチトリの名で崇めたというのとは違うでしょう。平和を愛する神ケツァルコアトル推しで、戦争と生贄に明け暮れたアステカを嫌ったアイリーン・ニコルソンは、堕落したアステカの神とはいえ本質は善なるものであったとか、自分の推しが一番じゃないのは嫌だとかいった理由で、ウィツィロポチトリをアステカ版ケツァルコアトル(ただし悪魔的な面はテスカトリポカ由来)だと解釈したようです。しかしメシカ人としてはウィツィロポチトリにケツァルコアトルの要素を取り入れた、あくまでメインはウィツィロポチトリであって、アイリーン・ニコルソンが主張するようにケツァルコアトルが主だった訳ではありません。

 話は変わりますが、トゥーラの領主セ・アカトルとメシカ人を導く者としてのウィツィロポチトリは、いずれもテスカトリポカの子孫として生まれています。何故でしょうか? この件について考えるに当たって、テスカトリポカが王権の神であることに注目してみます。

 『フィレンツェ絵文書・第6書』に収録された新王即位の際の祈りにおいて、王はテスカトリポカの背もたれであり唇や耳であるもの、言い換えれば神の力を現世に具現化するものとされます。代々の王がその役を受け継いでいくということは、テスカトリポカは王権の神、王権の概念ということでしょう。トゥーラのセ・アカトルとメシカのウィツィロポチトリが共にテスカトリポカの子孫であることは、トルテカからメシカに支配者の地位が受け継がれたことの必然性の証拠になります。付言すると、セ・アカトルの母がテスカトリポカが作った5人の女のうちの1人の子孫で(元は神とはいえ)人間の父を持つのに対し、ウィツィロポチトリの母がテスカトリポカが作った5人の女のうちの1人コアトリクエで処女懐胎したというのは、メシカはトルテカより神に近く正当な支配者だというアピールでしょう。

 それにしても、コティー・バーランドといいアイリーン・ニコルソンといい、ウィツィロポチトリをテスカトリポカとするかケツァルコアトルにするかの違いこそあれ、どうしてウィツィロポチトリ誕生譚をケツァルコアトル対テスカトリポカの話にしたのでしょうか? この記事において検証してきたようにそういった見方は妥当ではない、ウィツィロポチトリはテスカトリポカでもケツァルコアトルでもなくウィツィロポチトリ自身であるのに、なぜ素直にそう見ないのでしょうか?

 この問題には、生贄に対する忌避感が強く影響していると思います。生贄とは恐ろしい迷信だとしか見られなければ、生贄に反対したとされるケツァルコアトルを高く評価したくなるのは自然なことでしょう(『メキシコの歴史(Histoyre du Mechique)』『太陽の伝説』のようにトルテカのケツァルコアトル(セ・アカトル)が生贄に積極的だったとする史料もありますが)。そして、ケツァルコアトルと彼と対立したテスカトリポカの話を重視したくなるということは想像に難くありません。それで、メシカ人が自分達の守護神をより偉大にするべく複数の神々の要素を付加したウィツィロポチトリは、後世の人々にテスカトリポカないしケツァルコアトルの別名に過ぎないと過小評価されてしまったのです。

 しかし、当時の宗教観を理解しようとするならば、現代人が自分達の感性を押し付けるのは不適切です。完全に理解することはできないにしても、端から否定的に見るのではなく、なるべく当時の人達にとってはどうだったのか慮ることが大事です。善神ケツァルコアトル対邪神テスカトリポカという図式も、本当にそうなのか、生贄に反対したから善というのは当時の考え方に照らし合わせるとどうなるのか、などと改めて見直すといいと思います。それに、ケツァルコアトルとテスカトリポカの対立は確かにアステカ神話の重要な要素のひとつではありますが、それだけに固執して他の要素に目を向けないというのも、視野が狭くなってよくないでしょう。ウィツィロポチトリについても、テスカトリポカやケツァルコアトルとの共通部分だけでなく、彼独自の個性にも目を向ける必要があります。そうすることで、アステカ神話に対する理解はより深まるのではないでしょうか。

 

「コラム」目次へ戻る